北海道食材ものがたり 12 豆

道新TODAY 1998年12月号


豆のいろいろ
真ん中が大豆、外側は上から時計回りに、黒豆、大納言、普通小豆、大正金時、白金時、白花豆、虎豆


十勝の農業は豆から始まった

 北海道は豆王国である。水田の転作作物として全国的に生産されている大豆のシェアは2割を占めるに過ぎないが、それ以外の小豆、金時、花豆など雑豆と呼ばれるものでは84%(1997年)に達するほどだ。そしてその雑豆生産の中心が十勝地方。全道の5割以上を占める。日本の豆王国は十勝だといえよう。

 十勝の農業は豆づくりから始まったという。開拓当初はイナキビ、ヒエ、アワなどをつくっていたが、換金作物として大豆、小豆などがつくられ始めた。豆科の植物は根に空気中の窒素を固定する根粒菌がいるため、肥料をあまり必要としない。またほかの畑作物より手間がかからなかった。火山灰地で地力が弱い上に、自作、小作とも当時としては1人あたりの面積が大きく、家族以外に労働力もない。豆づくりはそんな十勝に打ってつけだった。


第1次世界大戦で豆成金

 こうして始まった十勝の豆づくりはその後、国際情勢によって大きな影響を受け、何度かの高揚期を迎える。

 最初の高揚期は1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦。菜豆とエンドウマメの国際価格が高騰し、作付けをどんどん広げたのだ。菜豆というのはインゲンマメのことで、日本では煮豆になったりお菓子の原料になったりする。ところがヨーロッパなど世界各国ではスープに入れるなど日本と用途は異なるが食生活に欠かせないものだ。その菜豆が戦争によって減産となり、エンドウマメも含めて価格が高騰、1俵3円程度だったものが20円以上にまで急騰したという。豆成金が続出した。

戦後は「赤いダイヤ」

 2度目の高揚期は昭和の大戦後である。戦中に不急な作物として作付けが制限されていた小豆や菜豆の生産が復活した。中でも小豆の生育は気象条件に大きな影響を受け、生産量は年々大幅な変動を繰り返す。そのため投機の対象とされ、凶作時には天井知らずの相場。「赤いダイヤ」と呼ばれたのがこの時期だ。一攫千金を夢見た農家も商人もそして一般人さえもが相場に手を出し、十勝全体が一喜一憂する狂乱の時代が1970年ごろまで続いた。

 小豆だけでなく、ほかの菜豆も広く作付けされ、1960年(昭和35年)ごろまでは耕地面積の6〜8割をも豆類が占めるほどだった。しかし連作障害、気象変動による不安定な生産を改善するため、小麦やビート、バレイショといった低温に強い根菜類の作付けが徐々に増え、豆類を含めた畑作4品を順につくる輪作体系が形づくられていく。また畑作に適しない高地や沿海部などでは酪農・畜産への転換も進んで、現在の十勝農業の姿ができあがった。


帯広駅から徒歩5分ほどのところにある「豆の資料館」は豆問屋、菅岡商店が設置。昔の道具などが展示されている。


岡女堂が進出

 そうはいっても十勝はいまだ豆王国であることには変わりない。その十勝でも本別町は「豆王国」を自認、甘納豆の工場が進出したり、農家の主婦たちが自ら豆を売り出したりと目立った動きを見せている。

 神戸で甘納豆を製造・販売する岡女堂が本別町に工場進出したのはちょうど10年前の1988年だ。同社は安政2年(1855年)の創業。ぜんざいをつくっていて焦げ付かせ、その豆を食べてみたらおいしかったので甘納豆の商売を始めた、という話が残っているほどの老舗だ。

「甘納豆の原料では本別町の皆さんにお世話になっていて、私もたびたびこちらにまいる機会があったんです。そのうち地元の若い方々が岡女堂の工場を本別町に誘致する勝手連をつくりまして。不安はあったんですが、実験工場という意味もあって進出しました。そのあと町民還元ということで甘納豆を通常の半額で販売したところ1日で50〜60万円も売り上げた。それならばと売店も併設し、観光バスも来るようになったので、今の広い売店を設置しました」

 と鰍ニかち岡女堂の大谷修一社長。岡女堂の本別工場としてスタートし、今年から独立して、名実とも本別町の企業となった。神戸の岡女堂で販売される甘納豆の大部分がここから送り出されていく。

ユニークさで町に新風

 この岡女堂、活動はきわめてユニークで本別町に新風を巻き起こしている。

 まず工場わきを走るふるさと銀河線に岡女堂という駅をつくってしまった。この駅はツアーにも利用されている。バスツアーの客が池田駅からふるさと銀河線の列車に乗り込み岡女堂駅で下車。休憩した後にまたバスの旅を続ける。

 節分の日には豆まき列車を仕立て、鬼の面をつけた同社従業員に向かって車窓から豆を投げる。

 敷地内に豆神社を建てたが、縁結びの神様として特に若い女性に人気だとか。またドーム型の旧売店にはおかめの面や人形などを展示、コレクション館にした。甘納豆には関係ないが、帯広駅の隣りにあったアサヒビール園の設備を譲り受け、敷地内にビール園までつくってしまった…。

岡目堂の工場と売店、レストランなどは、ふるさと銀河線の岡女堂駅に直結。

「よく岡目八目と言いますが十勝は私らには宝の山です。逆に十勝の人にとって神戸は宝の山ではないでしょうか。異文化をもった人々の橋渡し役になれば、と思っているんです」
 と大谷社長はいう。同社が、自分たちと豆の生産者双方に利益をもたらす一挙両得の方策として行ってきたのが、甘納豆の委託加工だ。

 農家は甘納豆の原料となる豆を岡女堂にもってくる。すると工場はそれを加工し、同じ重さの甘納豆として返還する。加工代は1銭もとらない。一見不思議なシステムだが、甘納豆に加工すると重量は倍に膨れ上がり、増えた分を販売に回すことでペイするのだという。

顔の見える豆

 十勝では3年前から豆フォーラムを開いており、第1回、第2回が本別町で開催された。このときも大谷社長は精力的に動き回ったのだが、第1回のパネラーとして参加したのがJA本別町女性部副部長の横山小月さんだった。この出会いが、農家の主婦でつくる「まめっこ倶楽部」結成のきっかけとなる。

 横山さんは大谷社長から「顔の見える甘納豆」を作らないかと誘われた。自分が生産した豆を甘納豆に加工し、顔写真がついた袋に詰めて岡女堂の売店で販売する。

 それが全国にテレビ中継され、今度は羽田空港の売店から依頼が舞い込んだ。甘納豆だけでなく生豆を入れた「顔の見える豆」もつくって一昨年11月、1ヶ月にわたり、女性部員たちが3泊交代で東京に詰めて販売した。


豆づくりは鳰(にお)積み作業に手間がかかる(横山さん夫婦)

 こうした活動を引き継いで昨年3月にJA本別町女性部まめっこ倶楽部が誕生、現在9名で「顔の見える豆」をつくり、Aコープや本別駅の物産センター、義経の館といった観光売店はもちろん、自分たちで販売ルートを切り開き、別海、中標津、弟子屈などのAコープでも販売している。

「豆は生産者から離れると混ざり合ってしまうので、スーパーなどで買ってもどんな豆が入っているか分からない。煮て柔らかくならない豆が混入していることもあるんです。『顔の見える豆』は品質に責任が持てます。豆選りも手作業なので手間がかるんですが」

 とJA本別町職員で女性部を担当する倉崎真由美さん。まめっこ倶楽部のほか、今年八月には女性部の中に「かあさん手造りとうふの会」が誕生した。本別町には納豆と醤油・味噌の製造工場はあるものの、豆腐屋さんは後継者難で消えていた。そこで女性部員たちが会を結成、毎月12日に豆腐をつくり、約80人の会員に配布している。来年3月まで試作を続け、その後は本格的な販売も検討している。

 またカトレア会という数年前に結成された味噌づくりのグループもあって、自家用の味噌をつくる以外に、学校給食でも一部使用されている。ただ単に畑で豆を生産するのではなく、その豆を加工し、販売するという活動が農家の主婦から立ち上がっている。


顔の見える豆 

 さて本別町、さらには十勝の豆生産は今後どうなっていくのだろうか。
「十勝が豆生産に適しているのは秋の天気が良くて品傷みが少ないためと、夏にそれほど高温にならないことだと思います」

 と道立十勝農業試験場豆類第二科の村田吉平科長。気温が高すぎると小さくて硬い豆になってしまう。ほかの作物では昼夜の温度差が大きいほど糖分が蓄えられておいしくなるといわれるが、豆類に関しては当てはまらないようだ。本別町は太平洋から吹く冷たい風、いわゆるヤマセが届かない。その点では十勝の中でも冷害を受けにくいという。

避けられない省力化

 また本別町は農家1戸あたりの耕地面積が比較的少ないことも豆類の生産が盛んな要因だという。というのも開拓当初は比較的手間がかからないという理由で普及した豆類の栽培だったが、小麦、バレイショ、ビートでは機械化が進み、今では畑作四品のうちで一番手間のかかる作物になってしまったからだ。特に鳰(にお)積みという畑のところどころに積み上げて乾燥させる作業があり、一気に収穫というわけにはいかない。

「十勝でも農業人口は減っていて、将来8割程度になると予想されています。機械化は避けられません」
 と村田科長。そこで開発されたのが小豆収穫の機械化だ。まず朝の朝露が残るころに機械で豆の根元から刈り倒す。それらが乾燥したころ別の機械で拾い上げ、脱穀する。拾い上げるためにピックアップ収穫と呼ばれる技術だ。小豆はほかの豆に比べて硬いため、こうした収穫に耐えられ、十勝ではすでに6割程度まで普及していると推定されている。

 大豆では国内自給率がたったの2%に落ち込み、小豆などの雑豆も輸入攻勢が続いている。そんな中で国産の豆類はどんな形で生産され続けるのか。豆王国の十勝でその方向を見いだす動きが、少しずつ始まっている。              

〔メモ〕
 小豆は粒が小さい普通種と粒が大きい大納言に分けられる。
 現在栽培されている普通種の大部分は十勝農試がつくったエリモショウズ。普通種は餡や羊羹、赤飯などに利用され、大納言は粒のまま甘納豆、高級和菓子などに使われる。
 インゲンマメは菜豆とも呼ばれ、支柱を必要としない普通菜豆と支柱が必要な高級菜豆とに分けられる。生物学的な意味ではなく、単に値段が高いため「高級」という名がついたようだ。手間がかかる高級菜豆は十勝ではあまり栽培されず、道内では洞爺湖周辺が主産地。「大福」類、「虎豆」類、「花豆」類などがあり大福はわかさいもの原料だ。
 普通菜豆は「金時」類、「手亡」類、「うずら」類など。大正金時は現在帯広市内の大正地区で盛んに生産されたための名前。それより粒が大きく収量も多い福勝が十勝農試でつくられ、作付けが増えている。


良いものを 各地から