北海道食材ものがたり 1  そば

道新TODAY1998年1月号


日本一のそばの里でそば祭り


 8月末、空知管内幌加内町で「日本新そば祭り」という催しがあった。長野、静岡、広島など全国各地からそれぞれ特徴あるそばが出店し、地元のそばとともにその味を競うイベントだ。

 広場にテント屋根のそば屋がずらりと並び、その裏側では職人たちが休む間もなくそばを打ち続ける。応援の自衛隊員が野戦用のタンクで湯を沸かし、店に供給する。上水道の太い本管が特別に引かれ、ゆでたそばが大量の水を使って冷やされる。店頭には待ちわびた客の長い列ができ、会場全体が身動きできないほどの込みようだ。


住民の10倍以上が訪れたそば祭り

 深名線が廃止され、過疎が進む人口2,300人余りの町に、3日間でその10倍を超える32,000人が訪れ、超ビッグイベントと化した。

 幌加内町には日本一が三つある。人造湖では日本一の広さを誇る朱鞠内湖。1978年に母子里地区で記録したとされるマイナス41.2度という日本の最低気温。そしてもう一つが、そばの生産が市町村単位で日本一という名誉だ。

 農産物は一般に作付け面積で生産規模を表している。農水省札幌統計情報事務所によれば、平成8年の全国のそばの作付けは26,000fで、うち北海道は8,900fを占めるが、幌加内町だけで2,100fと全国の1割近くに達する。府県単位でも、この町にかなうところがない。道内産地で2位以下に続くのは深川市の1,000f、旭川市の460fなど。そばどころとして有名な十勝の新得町は260fにすぎない。

 町議会議員で「日本新そば祭り」の実行委員長をつとめた北村忠一さんは自らも百fのそばをつくる農家である。再度同町を訪ねた11月初旬、北村さんは外国製の大型トラクターに乗り込み、取り入れが終わった広大なそば畑で、春の種まきに備えた土起こし作業中だった。

「幌加内はそばの生産には最適なところなんです。もともとそばの生育に適した寒冷地で、しかも昼夜の温度差が大きいのでデンプン質が乗っておいしくなる。それにそばは風に弱くてすぐに倒れてしまうんですが、盆地なのでそれほど強い風が吹かない。品質には絶対の自信を持っています」

 しかし全国的にダントツのそば産地、幌加内町で本格的にそばが作られだしたのは、昭和45年に始まった水田の減反だったという。その後飛躍的に増大したのが昭和63年だった。米のもみを大規模に乾燥、調整して玄米に仕上げる町内3カ所のライスセンターが使われなくなり、それをそば用に改造した。

 そばは「省力作物」と呼ばれるほどで、春に種をまけばあとは刈り取りまで手間がかからない。畑作物では最も短い約80日で収穫できる。病害虫に強く、農薬の散布も必要なし。農家は種まきすればあとは放ったらかしでよく、収穫は小麦用の大型コンバインで一気に済ます。出荷できる玄そばに仕上げる大規模な乾燥・貯蔵施設があれば、どんどん作付けを伸ばすことができるのだ。


幌加内町ではいたるところでそば畑を見ることができる

 同町ではこれまで畑として使われていなかった荒れ地にもそばが作付けされ、その結果が日本一のそばの産地だった。

 北村さんはコンバイン3台、トラクター3台を所有しているが、コンバインはすべて麦用の中古品。倉庫内にあったコンバインを見せていただいた。運転席の位置が見上げる高さにある。このコンバインが見渡す限りのそば畑で働いている場面を想像すると、妙な感覚が襲ってくる。「日本そば」の生産風景が、大型コンバインが動き回る、アメリカの穀倉地帯並だとは…。

「これだけそばが増えた理由には農家の後継者不足、高齢化もあったんです。離農者の跡地にそばが作付けられていった」
 省力作物は過疎・高齢化の作物という裏面がある。そば栽培に適するという冷涼な気候、山に囲まれた盆地という土地条件は、ほかならない過疎の条件なのだ。しかし「新そば祭り」には3万人もが集まった。幌加内町はそんなそばの持つエネルギーを最大限に生かした町づくりを志向しているようだった。

日本一のそば農家

 道北の音威子府村。この村はイカスミのような異様な黒さの「音威子府名代きそば」で有名。ほかのそばとは明らかにちがう独特な風味をもち、多くのファンを獲得している。

 そんな村に昨春、日本一のそば農家として表彰された人がいる。そばの生産者から流通、製粉、製麺業者、そば屋までの団体が集合した日本蕎麦協会という社団法人があって、優秀な生産者を毎年表彰しており、30fでそばをつくっている三好和己さんが、最高賞の農林水産大臣賞を受けた。道内からは過去に個人、グループそれぞれ一例ずつ最高賞の受賞歴があるという。

 音威子府村では13戸の農家が合計270fのそばを栽培し、ビート→そば→小麦→ビートという輪作体制をとり、そばを連作する幌加内とは一線を画している。
 三好さん宅を訪ねて、カマボコ型建物の中をのぞくと、ずらりと立ち並んだ背丈の2〜3倍はある円筒が目についた。かたわらには出荷を待つ玄そばの袋が山と積まれている。
「中古品を集めて四年がかりで自分でつくった。4千万円かかっているが、人にやってもらえば7千万円くらいかかるだろうな」


玄そば(そばの実)

 独自に乾燥・調整施設をつくってしまったのだ。ずらり並んだ円筒は、収穫したばかりの玄そばに風を通し、水分20%程度にする予備乾燥施設。その後別な乾燥機で25度以下の温風を通して乾かし、15〜16%くらいに仕上げる。

 この玄そばは比重選別機に二度通されて厳選された後、1俵45キロの袋に詰められて出荷を待つ。
 この施設から送り出される玄そばは、自分の分と村内外の農家からの委託を含めて6千俵以上。面積にすれば200f分は優に超え、個人というよりJA並みの出荷量だ。

 三好さんはそば30fのほか、ビート17f、小麦10fをつくっている。こうした畑作経営は元来農繁期を除けばひまなはずだが、この施設づくりでこの3年間まったく休むひまがなかったという。

 しかし施設づくりは順調に進んだものの、収入はそばの相場の下落で落ちる一方だった。一時期1俵15,000円もしていたものが8,000円まで値下がりした。これでは農業として採算が合わない。しかしそばづくりは農家の作業体系に組み込まれており、別な作物に転換することは容易ではない。

「12月に玄そばを4dトラックに積み込んで、本州に渡り、製粉業者に直接売り込んだ」 しかしどこも生産者との直接取引には応じてくれない。ただ1社、神奈川の製粉業者だけが買い入れてくれたいう。ここで三好さんはそば流通の独特な世界を垣間見る。

 そばは国内流通量の9割を中国、アメリカ、カナダの3カ国を中心とした輸入物が占めているという。国内産は1割に過ぎない。そして製粉業者は商社や問屋を通して玄そばを手に入れており、生産者から直接買うことはほとんどない。輸入物を握る商社や問屋を通して国内物も買っている。

 しかし3月に日本蕎麦協会の最高賞を受けると、三好さんに追い風が吹き始めた。商社や問屋からの問い合わせ、来訪が相次いでいるのだ。かれはそうした人々の名刺を並べながら、話は熱気づく。
「この人たちのところへ出かけて、頭を下げて回らなければならない。高く買ってくれるところがあるなら、そこに売りたいからね」

 JA並みの大規模施設をつくった三好さんだが、自宅はといえば、いまどきこれほど家があったのか、と想うほどの古さ。それだけに三好さんのそばを栽培して、厳選し、積極的に売っていくという情熱はいやが上にも伝わってくる。

そば農家のそば屋が開店

 旭川市東光の住宅地に、一年前にオープンした「そば江丹別 深貝農場」という店がある。外見はスパゲティ店風だが、れっきとしたそば屋だ。経営者の深貝仁さんは旭川市の西方、山あいの江丹別地区でそばを委託も含めて150fつくり、ほかに小麦や米、小豆、トウモロコシも作付けしている畑作農家だ。ふだんは奥さんの和枝さんが店に張り付いているが、農作業の合間をぬって自分もそばを打つ。

 周囲にそば屋が何軒もある、そばの激戦区。しかも店の位置は奥まっていて立地条件は悪いが、徐々にファンを増やしてきた。
「同業のそば屋さんが親切にいろいろ教えてくれたりして。それにそば農家が始めたそば屋というのでマスコミが取り上げてくれて。ほかとはちょっとちがった立場ですね」

 客の入りは尻上がりに好調だが、もうけの方はとなると、それほどでもないという。一般のそば屋では価格が国産の1〜2割程度の輸入品を主体にしたそば粉を使っているが、ここでは江丹別産のそば粉だけを使った8割そば。それだけ風味豊かなもののコストが高くなる。

 輸送の都合上、輸入される玄そばは水分が国産より1ポイント程度少ない14%程度まで乾燥されており、そのため風味も飛んでしまう。そこで製粉業者は輸入物に国産物をブレンドして風味を出しているが、全部国産を使うそばにはとうていかなわない。
「正直につくっていくしかないですね。農家とそば屋を両方やって、将来は札幌に店を出すのが夢なんです」

 深貝さんはJA江丹別の理事もつとめている。店にそば粉を供給しているのがJA江丹別と東京の製麺業者と共同出資して設立された会社、江丹別蕎麦加工で、深貝さんの自宅のすぐとなりに工場がある。

 この江丹別では深貝さんより半年ほど早くJA江丹別のそば農家組織、江丹別そば生産振興会が「そばの里 江丹別」というそば屋を開店させている。旭川市の中心部から車で30分もかかる場所だが、そばを目的に遠くからの客が驚くほど集まり、好調な売り上げだ。質のいいそば粉でつくったそばを提供すれば自ずと客は集まることを、振興会や深貝さんら農業者自らが証明しつつある。

観光農園でそば打ち体験

 新得町をはじめ鹿追町など十勝は昔からのそばの産地。新得町では乾そばメーカーの新得物産が6月にそば打ちも体験できる大型そば店「そばの館」をオープンさせ、連日客が押し寄せている。実は私も2度ほど行ってみたが、混雑していて、1人単独の客が席に着くけるような状況ではなかった。
 隣の鹿追町では、この10月に初めての「鹿追そばまつり」を1日だけ開催し、6千人の人出でにぎわった。

 このまつりの一翼を担ったのが8戸の農家で組織された農事組合法人西上経営組合(高橋俊一組合長)だ。355fの農地で小麦、ビート、ジャガイモ、ニンジン、キャベツなどを共同でつくっているが、イチゴ栽培を契機に観光農園としても歩みだし、現在はレストランも備えた消費者直結型の農場となっている。
 このレストランの目玉がこだわりのそばなのだ。

 畑から収穫したそばは外で3日ほど干した後、風を送って乾燥させる。JA鹿追町では小麦の乾燥調製施設を利用して、温度をかけず風だけで乾燥させているというが、ここではさらに乾燥の時間を長くとり、昔、天日だけで干していたころと同じくらいの日数をかけて干しあげる。そして粉をひくのは製粉所で一般的に使われているロール製粉という効率の良い方法ではなく、石臼をモーターで回す方式だ。

 その粉を使った、挽きたてで打ち立てのそばをレストランで提供、希望があればそば打ちも体験でき、自分で打ったそばをその場で食べることができる。この「そば道場」は4年前から開始した。

「昔は石臼で自家製粉して食べていたけれども、今は食べなくなってしまい、そばの味も忘れられてしまった。それでまず家庭のお母さんたちにおぼえて欲しいと始めたんです」
 とレストランや加工、観光農園を担当する菅原忍副組合長。折からの体験型観光ブームにも乗って、年間1,500人が体験するまでになったという。
 
 そばと一口にいっても材料、土地柄、値段の付け方、打ち方まで千差万別で、奥の深い食材であるということは、お会いした方々の共通した認識だった。

 私も鹿追町の西上経営組合でそば打ちを体験し、家に帰ってからも同じそば粉で再びそば打ちに挑戦した。その結果は、形は不揃いながら味は家族に大好評で、改めてそば粉の良し悪しを思い知らされた。また次はもっとうまく打ってみようという欲も湧いてきた。

 そばの生産日本一の北海道といっても、そばを食べる文化、そば打ち・製麺の技術はといえば、まだまだ道外各地にかなわない面があることは否めない。しかし最近道内各地でそば打ちの講習会などが頻繁に開かれるようになって、明るい展望が見えだした。そばという作物がほぼ無農薬であることからも、食材としての価値は高いはずだ。将来、スーパーに道産そば粉が置かれ、家庭で手軽にそば打ちをするような時代が、意外に早くやってくるかもしれないという感触を得た旅だった。
           

〔メモ〕
 ソバ属はタデ科に入り、起源は東部シベリア〜中国東北部という北方説と、 ヒマラヤ地帯という南方説がある。朝鮮半島を経由して日本に伝播し、続日本紀 (772年)にソバ栽培の記録がある。
 全国的に普及したのは江戸時代。北海道では昭和初期から「牡丹そば」という品種が奨励されていたが、各地 で交雑が進み、各地それぞれの特性を備える系統ができていた。
 そこで農水省北 海道農業試験場が富良野産「牡丹そば」を選抜育種し、早生で多収量という品種 を育て上げたのが系統名「北海1号」の「キタワセソバ」。その後、他との交雑 を防いで「キタワセソバ」の特性を保つために全道的にこの品種が作付けされる こととなった。


良いものを 各地から