揺れる北海道サケ・マス漁(上)
                社会新報道内版1993/1/15


〃公然の秘密〃をなぜ報道しなかったのか

書きたくても書けないジレンマ

 アメリカ沿岸警備隊の航空機による摘発に端を発したサケ・マス漁業問題は波紋を大きく広げ、国際的な信用問題にまで発展している。多数の漁業者を逮捕した海上保安庁は漁場の越境操業にとどまらず、日ロ間で取り決めた割当て量の大幅オーバーまで調べあげた。

 マスコミはこぞってサケ・マス漁業が当初から引 きずってきた漁獲量の不正常を報道している。漁獲量オーバーは官民ぐるみで行なわれ、それは公然の秘密だったというのである。

 こうした一連の報道を見るにつけ感じるのは、公然の秘密とまでいう不正常がなぜこれまで報道されてこなかったのか、そのことにマスコミ自身がまったく言及していないことである。報道しないのには何らかの深いわけがあるはずである。誘拐事件などでは犯人逮捕後に知っていたが報道しなかった旨を発表している。ところがサケ・マスでは公然の秘密などといいながら、どうして報道してこなかったのか少しも触れていない。

〃北洋伏魔殿〃の複雑なカラクリ

 旧ソ連では報道の自由がなく、それが人間本来の欲望を阻み、体制崩壊の一つの要因となった。その点で日本は報道の自由が確保された国であった。しかしジャーナリズムがこぞって報道を自粛し、たとえ真実でも書かない国でもあった。自由のない国との取り決めをホゴにし、それを自由なはずのマスコミが報道しない。なんという皮肉であろう。

 サケ・マス漁の不正常がこれまでまったく報道されてこなかったわけではない。今から一五年ほど前の一九七八年二月、朝日新聞が本多勝一編集委員のルポとして、ほぼ一ページを使って大きく取り上げている。ことの全貌を取り上げたのはこのルポが最初だったといえよう。

 「霧に包まれた 北洋伏魔殿 」「サケ・マス業界の奇怪な内幕」「『国益』の名で報道管制」「不信感招くカラクリ横行」といった大きな見出しが四本もあ り、次のような内容だった。

 本多編集委員は二年前に母船式サケ・マス漁の乗船取材を申し込んだ断られた。なぜかといえばサケ・マス漁期の北洋はまるで「洋上伏魔殿」だからである。漁獲割当てに対して母船で三倍、中型五倍、小型一〇倍をとっている。サケ・マスのうち初め安い魚がとれ、あとで高いベニザケやギンザケがとれると、安い魚は卵だけ残して海に捨ててしまう。
 ほかに流網の数、網目の大きさ、操業海域 、母船の缶詰工程で検査官が来たときだけ動くカウンター、二重三重帳簿、役人 との関係等々、問題を細かく報告すればきりがない。「国益」のために伏魔殿は 霧に包まれ、正確なカラクリは公開されない…。

どれだけの漁民が職を失うのか

 このルポを細かく見てみると、かなり荒っぽい書き方である。この程度のことは釧路や根室にいる記者ならほとんど知っていた。現地に赴任した記者はサケ ・マス漁に接して、その華やかさや活気に驚き感動もするが、取材を始めるとすぐ数量の壁にぶち当たる。教えてくれなかったり、教えても適当だったりで疑惑が次々に湧き上がるのである。
 
 ところが事態がだんだん見えてくると今度は書きたくとも書けないというジレンマに陥ってしまう。そうしたタブーを破ったのが朝日新聞の花形記者、本多編集委員だった。本来ならば道新はじめマスコミ各社が朝日を追って報道合戦を繰り広げるところなのだろうが、そうはならなかった。特に漁獲量の不正常についてはその後も固い沈黙を守った。

 五年後の一九八三年、サケ・マス漁業の実態がもう一度暴かれる。中型船業界が『おとり船』を仕立てていることをNHKと共同通信が克明に報道したのである。水産庁の監視船にソ連のオブザーバーが乗り込むことになって業界は対策を講じなくてはならなくなった。そこで六隻に一隻の割で『おとり船』を仕立てて監視船の近くで操業させ、その間に他の船は北の禁漁区に出漁してベニザケなど高価な魚を確保するというものだった。『おとり船』は安いマス主体の水揚げになるため他の船が補償金を出した。

 私はそのとき水産業界紙の記者になって四年目、釧路に移って三年目であった。『おとり船』を報道したNHKの記者とも共同通信の記者とも仲が良かった。記事が出た数日後、飲み屋でNHK記者に出合い、あのときばかりは頭に血が上っていた。「あの報道でどれだけの漁民が苦しみ、職を失うことになるかわかっているのか」と迫った。

 この件については報道されても仕方がない、というのが私の本心だった。ところが本人を前にすると、心ない報道を非難するというもう一方の意識が突如頭の中を支配してしまった。

不正常の根本は報道されぬまま

 彼が言うには前の年に全容が取材できたため、中型船業界の理事者にカメラを入れてのインタビューを試み、成功した。ところが帰ろうとした彼の背中に「待ってくれ」と声をかけ、涙を流して「報道してくれるな」と嘆願され、発表をとどまった。しかし翌年になっても状況は変わらず、表に出すことを決意した。

 私はさらに詰め寄った。
「違反しなければ採算が合わない。漁民が生きるためにやっているだけではな いのか。なぜ報道してしまったのか」
 なぜ?に応えて吐いた彼の言葉は、そのときの私の耳にはなんとも白々しいものに響いた。
「ジャーリスト魂さ」
 彼がどんな気持ちでこんなキザなセリフを口にしたのかはわからない。しかし私の心の中ではその後この言葉がズシリ、ズシリと重みを増していった。ジャ ーナリズムと北洋漁業の不正常についていつも考えてきた。しかし明確な答えはなかなか見い出せない。

 NHK記者も悩みに悩んだ結論だったのだろう。『おとり船』報道で明らかになったのは、水産庁の監視船が監視船という名前の通りの役割をまったく果たしていなかったことだった。ソ連人が乗り込まなければ『おとり船』など必要なかったのである。これで官民一体となった許可水域破りが明らかになった。
 しかし漁獲割当て量オーバーという根幹を成す不正常はこのときも報道されず、公然 の秘密のままであった。ジャーナリスト魂の限界がそこには見えていた。


      揺れる北海道サケ・マス漁(中)
                 社会新報道内版1993/1/19

割当量は一航海だけでオーバーする

水産庁の対応が不正常の発端に

ソ連船の臨検をクリアしながら

 北洋サケ・マス漁業の漁獲量の不正常は、私が水産業界新聞の記者になったときやはり現地では公然の秘密であった。中型船が一度港に入ればそれだけで一 隻当たりの割当てを超えてしまう。中型船は二航海が普通なので、割当ての二倍以上はとっていたことになる。問題の十九トン型も一航海だけで一隻分を超える 。漁期に数回航海していたので、その分だけオーバーしていたことになる。

 聞いたところではソ連船の臨検を何とかクリアできる量だという。一隻当たりの割当て量からかけ離れた積載だと摘発逃れは難しいが、とりあえず割当てに近い量ならばその場を取り繕えるからである。

 港に水揚げされる総量についても事業報告書などに数字を載せる漁協が多く 、オーバーのほどは一目瞭然だった。漁場については自分の目で確かめたわけではないが、ソ連航空機の摘発や漁業者の話などから区域外操業は当たり前であった。北洋はこの時期濃い霧に覆われることも摘発逃れに役立っているようだった 。
 
こうした不正常な状態はいつから始まったのか。板橋守邦北海道女子短期大学教授は新聞やテレビで、漁獲割当て量などの不正常は戦前からのものだと指摘している。漁獲割当ては一九二九年のソ連の漁業五ヶ年計画とともに登場したが日本の業界はそれを無視したという。

 戦後については一九五六年、最初の日ソ漁業交渉の際、河野一郎農相がソ連の厳しい漁獲割当てに屈したあと昂然として「割当ては目安であり、たいしてこだわることはない」と言ったことをよりどころにしているという。板橋教授は元新聞記者で、こうした事情に詳しいらしい。

道東の毛ガニ漁にも大きな影響

 北海道新聞夕刊に「私の中の歴史」という企画があり、全国鮭鱒流網漁業協同組合連合会(中型船の団体)の専務を務めた金沢幸雄さんの回想が掲載されたことがあった。その中にも重大な指摘があった。昭和三十一年、初めて漁獲量が制限されたとき、母船式と中型船が奪い合いを演じた。そのとき水産庁長官と中型船の代表とで「ええじゃないか。海の上のことはわからん」「よしわかった」というやり取りがあって、それが北洋漁業を狂わせたというのである。

 日本鮭鱒漁業組合連合会(母船式独航船の団体)の記念誌「独航船のあゆみ」にも注目すべき記述がある。昭和三十二年から日ソ漁業交渉によって割当て量が決められ、母船式業界には十二万五千トンの要求に対して二割少ない十万トンが割当てられた。このままでは赤字になるため業界は減船案を提出。しかし水産庁は漁業交渉への悪影響などから難色を示し、減船は実現しなかった。

 ボタンの掛け違いといわれるサケ・マス漁業の歴史にはそうした発端があった。そしてサケ・マスの不正常は他の沿岸漁業にも重大な影響を与えていた。それは道東の毛ガニ漁で、拙著「北のさかな物語」(北海道新聞社)でも取り上げている。漁獲制限があるのはサケ・マスとそして毛ガニだったのである。

オホーツク海域では資源守れた

 秋の毛ガニ漁が始まったころ、道東太平洋のある漁協の市場にその日の水揚げ量を聞きに行ったことがあった。そのとき市場の部長氏は電卓をたたき、出てきた数字を見せて言った。「こう書いててくれないか」<FONT size="+1"><BR>

 毛ガニ漁では水産試験場の調査結果などをもとに漁獲制限量が毎年決められていた。部長氏は自分の漁協に割当てられた量を漁期の日数で単純に割って一日当たりの量を計算し私に見せたのだった。水産業界紙としてはまるで意味のない数字で、しかもその量は現実よりも極端に小さかった。漁業者も漁協もまったく毛ガニの漁獲制限は守っていなかったのである。その結果道東太平洋の毛ガニ資源は激減した。

 ところが同じく漁獲制限量を 決めてきたオホーツク海域では、道東太平洋ほどの落ち込みを見せていなかった。制限に対して道東太平洋ではサケ・マスと同じような対応をしてきた。ところがオホーツク海にはサケ・マスといった例がないため、漁獲制限は毛ガニのみ。そこで制限に近い量で収める努力をしてきた。

 一方は漁業者も漁協も制限を無視しとれるだけとる。一方ではごまかしはあ っても無視はしていなかった。車の運転にたとえれば、オホーツク海では六十キ ロ制限の道路を十キロくらいのオーバーなら大丈夫だろうといった勝手な解釈を 加えて走っていたのに、道東太平洋では制限速度の標識など目もくれず、出せる だけのスピードで走り回った。それが毛ガニ資源にはっきりと現れてしまったのである。こうした私の解釈は何人かの漁業者や関係者に聞いてもらっている。そ の結果、肯定する人はいても否定する人はだれもいなかった。


       揺れる北海道サケ・マス漁(下)
             社会新報道内版1993/1/22

国家対立が科学的な資源論争ねじ曲げる

海の利用の国際協力へ話し合いを

出漁ぎりぎりの妥結にムリが

 現在の農業や北方領土といった国際的な交渉を見ていて、漁業の宿命を強く感じることがある。北方領土はもちろん農業交渉も短期間で解決するとはだれも思っていないだろう。国内調整が必要であり、何年もの時間をかけて、双方がある程度納得した形での解決を見い出そうと努力している。

 ところがサケ・マスをはじめ、漁業では交渉に時間をかけられなかった。毎年のように出漁ぎりぎりで妥結し『通行手形』をもらって漁船は一斉に北洋の荒海に向かったのである。

 サケ・マス漁の舞台は領土や領海といった国家権力の及ぶ場所ではなかった。自衛隊も海上保安庁も武力では助けてくれない公海上である。日本という国家から飛び出し、圧倒的なソ連の力におびえながら、各船が自己の責任で可能な限りぎりぎりの範囲で操業してきた。

 サケ・マス漁にはボタンのかけ違いという発端が確かにあった。そして国や道の担当者は不正な状態を事務的に引き継ぎ、海上保安庁は政策がらみのことに手を出さなかった。それに加えて不正をチェックすべきジャーナリズムが見て見ぬふりをしてきたのである。

 私は今回逮捕された漁業者を大上段から非難することなど到底できない。罪人は漁業者ではあるが罪人をつくったのは行政であり、保安庁であり、ジャーナリズムだと思っている。しかし一番の悪人がだれだったのかといえば、特定できそうもない。

 不幸だったのは日ソ交渉が国家と国家とのぶつかり合い、だまし合いに終始し、本来最も重要なはずのサケ・マス資源論争がねじ曲げられてしまったことである。サケ・マスだけでなく、日本の遠洋漁業ではおしなべて資源論争がねじ曲げられてきたと言えよう。

国に都合のいいデータ探し

 十年ほど前、ある水産の研究所を訪ねたとき水産庁からその研究所に「カニが海底ではなく中層でとれたというデータが過去になかったか」という問い合わせが来ていた。担当者は「海底からカニが山盛りになっているわけでもなかろうに」と無念の表情でつぶやいた。

 ある大手水産会社の船が網をひいていてカニをとってしまった。ところがその海域は底びき網が禁止され中層びきしかできなかったため、ある国から摘発されたのだった。それを弁護するため水産庁が必死になって都合のいいデータをさがしていたのだった。

 サケ・マスでは研究者たちがもっとひどい目にあってきた。日ソサケ・マス交渉の前段としてある日ソの研究者の会議で日本側が使うのは実際の漁獲量の何分の一にまで縮小された偽りのデータだった。これではまっとうな科学論議などできるわけはない。

 釧路港で中型船や小型船の漁獲量を独自で集計していた人がポツリと言ったことがある。得られたデータは割当て量をとっくにオーバーしていた。「でも割当て量というのは丸の重量なんだよね。これでも少ないんだよね」。丸とは手を加えていないサケ・マスの重量。ところが市場で得られる数字は腹をさいて臓物を取り出したサケ・マスの重量なのである。きっと今回の十九トン型の事件で割当て量の何倍と報道されている数字も丸ではない。本当はもう少しオーバーの程度が大きいはずである。

 海の問題は陸上のように単純には解決できない。土地は二次元で分割できるが海は三次元。それも中身は流体で水も魚も人為的に制御するのは不可能に近い。二百海里時代に入って線びきはされたものの、それは海を利用するための完璧な原理原則には到底なり得ないものである。

 明治維新後、あるいは太平洋戦争後、日本沿岸にも土地制度のようなはっきりした資本主義の原理原則を当てはめるべく当局者が奔走したという。しかし新たな原理原則はついに見い出せなかった。日本にあった伝統的な制度を引き継ぎ 、問題が起こった場合は当事者同士の徹底した話し合いしかなかった。これはなにも日本が遅れているわけではなく、今の体制下ではそれ以外に考えられなかった。

国家超え当事者間の話し合いを

 日本国内で行なわれてきた海の利用についての話し合いが、国家間では行なわれてこなかった。対立に終始し、海を経済基盤とする人間に数多くの不幸を与えてきたのである。しかし海は陸にはない可能性を持っている。国家と国家が対立すれば悲劇を生むが、逆に経済をともなった真の協力関係を築くことも海を使えば可能なのである。

 二百海里という原理によって資源ナショナリズムが全世界に浸透した。しかしその原理がそれまでの無秩序な漁業の防波堤になりはしても、海を制する完璧な原理とはなり得ない。海はその性格上インターナショナルそのものだからである。今のところの原理原則は日本国内と同じような徹底した当事者間の話し合いしかない。その原則を貫けば海は人間に豊かな恵みを与えてくれるはずである。

北洋サケ・マス漁はまさに資源ナショナリズムの狭間に置かれ、四十年に及ぶ北洋サケ・マス漁業の歴史は明と暗の混然としたものであった。あるとき人々は喜びに沸き返り、あるとき人々は悲しみに打ちひしがれた。それはインターナショナリズムとナショナリズムという相反するものがつくり出した人間社会のまだら模様だった。

 日本は今、国際化という避けて通れない課題に直面している。その点で北洋漁業は海の利用のみならず社会全体に大きな教訓を残してくれたのではなかろうか。