パークゴルフ(幕別町) |
根室本線幕別駅。帯広駅から20分弱のこの駅のすぐ裏手には樹木と芝生の公園が広がっている。新田の森パークゴルフ場だ。パークゴルフ発祥の地であり、現在でも中心的役割を担う幕別町らしい風景である。 幕別町がパークゴルフの聖地なら、教祖はNPO国際パークゴルフ協会の前原懿理事長ということになる。 1983年、前原さんは町教育委員会教育部長になった。 「鳥取県で考案されたグラウンドゴルフの道具がたまたま町にあったんです。それで野球場でやってみたんですが、ズボンの裾は汚れるしで自分には合わないと思った。帰りに目に入ったのが芝生の公園でした。つき合いで年に1〜2回ゴルフをやる程度でしたが、芝の上を歩く爽快さは感じていた。さっそく穴を掘ってやってみました」 発端は単純だったが、その後すんなりことが運んだわけではない。 問題となったのはゴルフクラブの強度。グラウンドゴルフ用では木が剥離したり折れたりで耐久性がない。そこで相談したのが冒頭の新田の森にある合板メーカー、新田ベニヤ工業(現在のニッタクス)だった。 公園の利用は何とかなった。輪切りにした塩ビ管を埋め込んでホールにする。普通そんなことは許されないはずだが、公園管理者も同じ町職員。あうんの呼吸が、公園のゴルフ場化を可能にしたらしい。 ゴルフクラブもできて公園も使える。盛んだったゲートボール以上のおもしろさを前川さんたちは実感していた。しかし当初ゲートボールのグループは誘わなかった。 「ゲートボールは行政が高齢者のスポーツにしてしまったんです。それでまず子育て中の中年の人々にやってもらおうと考えた。そのうち自然とゲートボールの人たちも入ってきて、子どもたちも含め3世代が楽しめるスポーツになっていきました」 ことの始まりから3年後の1986年、国際大会なるイベントが幕別町で開かれる。十勝に居住している外国人に参加を呼びかけた大会は大成功。このときグラウンドゴルフだった名称を正式にパークゴルフと定め、国際の名を冠した協会が設立された。 外国人参加の大会を開いたくらいで「国際」とはかなりの大風呂敷ぶりだが、その後の展開を考えればこの名前にもうなずける。 現在40道府県にパークゴルフ場がつくられ、南米や豪州など海外への広がりも見せている。愛好者は50万人といわれ膨張中だ。 遊び心と大胆な発想、ちょっとした勇気、それに公務員らしい緻密な計算が、現在のパークゴルフの繁栄をつくったといえそうだ。 |