5 旅人のとまりぎ、港町のユース
ー稚内ー

1992年9月



  ロシア交流のターミナル

 礼文島の香深港を出た東日本海フェリーのクイーン宗谷は約二時間の船旅を終え稚内港に近づいてきた。2泊という急ぎ足で利尻、礼文島をまわってきた帰りである。名物のドーム型防波堤が迎えてくれた。

 ギリシャやローマあたりの古代建築物を思わせる凝ったつくり。味も素っ気もない直線的な防波堤を見なれた者にはあまりに美しい。これに覆われたまっすぐな岸壁が戦前に稚内と樺太の大泊を結んだ航路の発着場であったという。樺太は今のサハリン、大泊はコルサコフである。

 かつて稚泊航路と呼ばれた栄光の定 期航路があった。利尻島や礼文島と結ぶだけでなく、日本の北端に位置する稚内は本来サハリンとの往来のターミナルなのである。

 知人のユースホステル経営者、中井淳之助さん(39)と合流し稚内の街を少し案内してもらった。興味があったのはロシア船である。稚泊の定期航路はなくても、カニなどを陸揚げするロシア船は毎日入っているらしい。帰りに日本の 中古車を何台も積んでいくシーンがテレビのニュースなどによく出てくる。

 中井さんの運転する車はフェリー乗り場のちょうど対岸にあたる岸壁で停まった。漁船なのか貨物船なのか、さびだらけの船が5隻ほど並んでいる。三色のロシア国旗を掲げ、船員がたむろしている。女性もいる。

 ものの30分もしないうちにナンバーの外された乗用車が車両運搬車で運び込まれ、岸壁に並びだした。予想よりはるかに程度のいい中古車である。ロシアで車を持てるのはほんの一部の人々で、日本でいえばベンツやBMWといった感覚なんだろうから、ボロボロでは売り物にならないのかもしれない。

 定期航路はなくとも稚内港はロシアとの交流の拠点になっている。それに毎年夏にはコルサコフと結ぶ臨時のフェリーが何便か出ている。物流だけでなく旅のターミナルとしての重みを増しだしたのである。サハリンとの交流がもっと盛んとなり、ドーム型防波堤が象徴するようなかつてのにぎわいが戻る日もそう遠 くない気がする。


  稚内信金はすごい

 さて中井さんの稚内モシリパユースホステルは稚内駅から歩いて5分ほどで 、フェリー乗り場にも5分ほどで行ける好位置にある。鉄筋コンクリート3階建て。開業5年目にして利用者の人気投票で全国ナンバーワンとなり、その後も常に5番以内に顔を出す人気ユースホステルである。

 中井さんがここでユースホステルを始めたのは9年前だった。大阪で生まれ育った彼は北海道大学に入学、各地を旅行して旅のおもしろさを知る。
 同時にそ のころまだ盛んだった学生運動にも参加。教養部自治会の副委員長に立候補し2度当選した。しかし3年生になるとき学生運動に疑問を感じて1年間休学する。 内ゲバと呼ばれる殺し合いが激しくなる一方の時代であった。

 休学の半年はアルバイトに充て、稼いだ金でヨーロッパや北アフリカを半年放浪した。その後大学に戻って理学部を卒業、ユースホステルを始めるための長い準備期間に入る。

 「卒業した時点でユースをやりたいという考えでしたが、社会の仕組みもわからないし、やったって潰されてしまうだけ。それで3年だけ入るので商売を教えてほしい、それでもいいですか、と聞いたら、いいというので入社したんです」

 彼を受け入れたのは剣道の防具など武道具を販売する会社で、中井さんは営業マンとして道北の担当となった。その仕事で稚内の山下さんという人と知り合 う。この出合いによってユースホステル設立が具体的に動き出すのである。

 付き合いが深まるにつれ彼の人柄を知り、ユース設立という目標を知った山下さんは稚内市長に引き合わせてくれた。市長は物分かりのいい人で「やりなさい」と応援してくれた。稚内信金の理事長とも会うことができ、稚内でのユースホステル設立の準備が整った。この間大学の3年後輩で仙台出身の恵子さん(36)と結 婚した。

 昭和58年4月、いよいよ営業開始である。建物は元料理屋だったので、内部を全面改装。そうした費用の約4500万円はすべて信金から借りた。実績のない若者に人と企画だけで大金を貸した信金はすごい。

  稚内に根付く若者

 「こりゃ、しゃっきんコンクリートだな」
 訪ねてきた恵子さんの兄が鉄筋コンクリートの建物を見上げて口にした言葉であった。中井夫婦の当時の心境をズバリとらえた名文句である。客は来てくれるのだろうか。借金は返していけるのだろうか。そんな不安をよそに、利用者の評判はうなぎ上り。施設が清潔なことに加え、ユースホステルの利用者は若者がほとんどで、年齢の近い中井さんのやり方に親しみがもてたのかもしれない。もちろん地味な努力も重ねた。そして全国一の人気を獲得してしまった。

 「始めたころは、稚内を好きになってもらうといった大きなことを考えるのではなく、とにかく来てくれた人にモシリパを好きになってもらおう、と目標を置 いていたんです。その結果として稚内が好きだ、となればそれでいいんであって …」

 客との交流は思いがけない形となって現れた。客がそのままヘルパーとなり中井さんと一緒に働き始める。中には稚内に別な職を持ち定住する人も現れ、その数5人。先日は中井さん夫婦を媒酌人とした結婚式まであった。男性は千葉県出身で市内のショッピングセンターに就職、石川県出身の女性はヘルパーをしな がら北海道の教員採用試験を受け、近くの小学校の先生になった。




 中井さん自身も稚内にしっかり根付いていった。金のたまご騒動を起こした白夜祭では中心メンバーの1人となり、そのほかの活動にも積極的に参加している。

  ユースホステルの新しい形は?

 私たちが訪ねた日の夜、中井さんは宿泊客にスライドを使って稚内周辺の見どころを説明していた。観光名所ではなく、心身ともにのんびりするような場所について季節感を交えて話していた。旅の楽しみ方を提案しているようにも見えた。

 若者の心をとらえたはずの中井さんだが、旅人の世代が新しくなるにつれ、感覚のギャップも大きくなったと感じているという。客との交流が物足りないのである。

 「ユースの中にバーでも開こうかな、なんて考えて。ユースの経営者と客とではできないような交流が、カウンターの中と外とではできるような気がするんです」

 なるほど大勢の泊まり客に接しなければならないユースホステルの経営者なら限界があるのかもしれない。しかしバーなら交流を求める人がやって来る。酒が入れば話がはずみ年齢の差も気にならないだろう。おもしろいアイデアである。

 きっとそのうち日本で初のユニークで楽しいユースホステルが誕生するにち がいない。そのころはロシアと定期航路も開け、稚内が国際的なターミナルとして機能し、外国人の泊まり客も確実に増えていることだろう。カウンター越しに中井さんが必死にコミュニケーションを図っている姿が目に浮かぶ。

 翌日急行宗谷で札幌に向かった。走りだして10分もしないころ、海のよく見える場所にさしかかって列車は徐行を始めた。
 来るとき利尻山は雲に隠れていたが今度はどうか。

 素晴らしい。青空をバックに美しい稜線がくっきり現れている。ガラス窓を上に引き上げ、風を入れた。増井氏は夢中でカメラのシャッターをきる。これまで何万人の人々がこの美しい利尻山を目にし、心洗われる風景にはげまされて南の地に向かっていったことか。

 列車がスピードを増し、つかの間の美は後方に去 った。
 「このために来たようなもの」と興奮さめやらぬ増井氏がつぶやいた。

(中井さんは現在、ユースホステル経営のかたわら、稚内市議会議員としても 活躍しておられます)