追分の向こうに大海原が見えた
−江差−

1992年6月



  江差は江戸か東京か!?

 函館から江差線に乗って2時間半、上ノ国を過ぎると日本海に出る。前方に 遠く見えてくるのは江差のシンボルかもめ島と三本マストの黒船。復元された開陽丸のレプリカである。

 今度の旅は目的が盛りだくさんだ。開陽丸を見学しなが ら幕末の歴史を考えてみたい。ニシン漁華やかなころの歴史的建造物もじっくり見てみたい。追分会館で江差追分の教授を受ける。江差町では活魚をつねに用意 し、旅館や飲食店に出しているそうなので、それも食ってみたい…。

 列車に揺られて時刻表を眺めていると妙なことに気づいた。江差行きが上り 、反対の木古内行きが下りになっているのである。
 ローカル線の終着駅が上りの終点なんて聞いたことがない。江差は日本の首都TOKYOと同格ということか? JRで江差にやってくる旅人はお上りさんか?

 鉄道についてはもう一つの疑問があった。江差駅から中心街までが遠いのである。天気の良い日なら歩けない距離ではないだろうが、それにしてもこの遠さには事情がありそうだ。

 さっそく駅員さんに聞いてみた。上りになったのは青函トンネルが開通してからだそうで、函館から木古内までが上りになったので、それに合わせて江差まで上りになってしまった。なるほど。

 駅が遠いのは戦前、海運業者の反対で港まで線路を延ばす計画が実現できなかったため。当時の鉄道建設は貨物輸送が主目的で、海運業とはライバル関係にあった。これも納得。

  「蝦夷共和国」の不運

 見たい所はたくさんあるが、1泊2日の日程では回りきれそうにない。次々に見学しても頭が消化不良になりそうだ。そこで開陽丸と江差追分会館に的をしぼることにした。

 オランダで建造された徳川幕府の旗艦、開陽丸であったが、時代が悪かった。将軍徳川慶喜が大坂城を脱出し江戸へ逃れる足に使われ、その後「蝦夷共和国 」を夢見る榎本武揚たちの旗艦として函館までやってきた。ところが陸戦の応援で江差沖に出向き、暴風で座礁、破壊され、海中に消えていったのである。

 沈没現場が岸に近いため回収作業が何度も行われた。戦前までは主に金属類の回収で、埋蔵文化財としての発掘が始まったのは昭和50年である。
 さらに原寸大で再現した開陽丸のレプリカが平成元年に完成し、海底から掘り出された遺物も船内に展示されている。

 施設を管理する開陽丸青少年センターで話をうかがっているうち議論になっ た。もし開陽丸が無事だったら歴史は変わっていたか?
 「官軍には甲鉄という開陽丸をしのぐ性能の最新鋭艦があった。開陽丸はそれに打ち勝てなかったのではないか」

 と私。センターの植木伸一次長は「長距離砲もあったし、乗組員の質は上で、海戦で負けはしなかった」と反論する。結局、榎本軍と官軍との戦闘は長引き、そのために歴史にない 新局面も生まれたのではないか、で「和解」してもらった。

  手っ食い現る

 江差町では活魚利用推進協議会という組織をつくって、旅館や飲食店で注文すればいつでも活魚を味わえる仕組みを整えている。江差漁業協同組合の水槽に巨大ヒラメが飼われているのを知っている私としては是非とも増井カメラマンを連れていき、彼が驚くのを見たい。

 期待通り「オオー」という声が発せられた。10キロ級の巨大ヒラメである。 かもめ島のすぐ沖に、ヒラメが集まる特殊な漁場がある。
 グラウンドほどの広さ しかないところになぜかヒラメが集まってくるのである。2年前に漁の現場を見 せていただく機会があり、それは不思議な光景だった。

 釣り糸を引っ張る漁船が規則正しく並び、順々にその漁場に入っては出ていく。その日は2キロ程度のヒ ラメしか獲れなかったが、漁協の水槽で10キロ級のヒラメを見て、その迫力に圧倒されたものだった。ついでながら漁の様子については拙著「北のさかな物語」(北海道新聞社)に収録されている。

 増井氏の注文に応じて水槽から出してもらうとき、暴れる姿はテックイそのもの。テックイとはヒラメの別名で人の手に食いつくという意味である。口は大人の手がスッポリ入るほど大きく、これにやられたら指の2、3本は食いちぎられるに違いない。
 ただしテックイの語源は鉄杭という説もある。むかしは鉄の杭 を使ったドンツキという漁法でヒラメを獲っていたという。

 その晩は700グラムほどのヒラメをいただいた。優に5人前はあったので10キロ級のものすごさがわかろうというもの。
 「ヒラメは〆てから少し時間を置いた方がうまみが出るので、活魚ではもったいない気がする」などとウンチクを傾 けつつ、おいしくいただいた。なんたって天然ヒラメである。




 翌日はいよいよ江差追分会館内の追分道場である。道場入口の看板には「お気軽に入りください」という文字が見える。お気軽に、と言われても入るには勇気がいる。
 ただし今回は純然たる観光ではなくレポーターである。入館者には無料で江差追分を教えてくれる道場にレポーターとして入場し、教授願おうというのである。

 10畳ほどの和室には中年男女4人の先客がいて、青坂満師匠(60)の話を 熱心に聞いていた。名簿を見ると滋賀県からの観光客である。江差追分の由来を聞いただけで歌わずに帰っていった。

  カラオケ声と民謡声

 我々の番である。まず簡単に青坂師匠の経歴を聞く。かもめ島で生まれ、家 は島の入口にある。かもめ島に行こうとするときすぐに目につく家である。
 本業は漁師で18歳のころ師匠について習い始めた。昭和43年の江差追分全国大会で優勝。10年ほど前から教え始め、今は漁師を辞めて師匠業に専念している。

 ひと通り歌い方の説明を聞いたあと、独特な楽譜を見ながら師匠に続いて歌 っていく。
 「カモメーエ エエエエ エ ノオ オオオオ」
 ここで師匠が助言。
 「お宅さんの場合は民謡の声をまだ出していないんです。カラオケの人は地声なのさ。こちらの人の声は民謡の声になっている。鍛練して民謡の声を出さないと…」
 「お宅」とは民謡の宝庫山形県出身の私、「こちらの人」は札幌で生まれ育っ た20代の増井氏である。私が沢田研二さんのカラオケしかやっていないのを師匠に見抜かれたか?

 これで自信をなくしたこともあって自分で歌うのを抑えぎみにして、師匠の歌をよく聞くことにした。すると小さな和室にいるのに、茫洋とした海が目の前に広がっているような気になってきたのである。
 海ではなく大地かもしれない。 とにかく広く果てしない風景である。思ってもみない体験だった。音が風景をつくりあげていくのである。

 師匠を外に連れ出した。海を見ながら歌ってもらい、それを写真に収めようという身勝手な注文である。今度は室内とは違った現象がおそってきた。
 寄せる波の音。飛び交うかもめの声。それにカシャカシャというカメラのシャッター音。海に向き合った青坂師匠が江差追分を歌いだす。

 並んで海を眺めていた私の体に熱いものが込み上げてきた。海の向こうにある故郷をおもう、といった単純なものではない複雑な感情が突然湧いて心を揺さぶった。
 心の琴線が激 しく弾かれている。青坂師匠の追分に心が共鳴している。

 メガネをはずし、そっとハンカチで涙をふきながら、なるほどこういうのを芸術というのか、と実感した。
 江差は驚きに満ちた町であった。