9 りんごの駅の行商おばちゃん
−江部乙−

1993年1月



  行商続けて40年

 リンゴ売りのおばちゃん、江部乙の三好ミツさんが旭川市の住宅街を軽い足 どりで歩く。かごの上に風呂敷で包んだ段ボール箱を重ねて背負っている。

 このスタイルで毎朝、通勤、通学客に交じって江部乙駅からやってくる。竹製のかごは青い布で表面が覆われている。竹のささくれでまわりの人を傷つけない配慮である。

 おばちゃんは大正15年1月佐渡島に生まれ、16歳のとき5年間の年季奉公で旭川にやってきた。そのあと江部乙に嫁に行き、29歳のときからリンゴの行商を始めた。この商売を始めて40年、愛用のかごとの付き合いも40年になる。苦楽をともにしてきた大切なかごなのである。

 おばちゃんとお客さんたちとの交流に接してみたいと思って同行させてもらった。木枯らし吹く初冬の季節にあって心温まる光景がみられるのではなかろう か…。

 普段は旭川駅前でバスに乗り、お得意さんのいる地域で降りて一軒一軒まわり、またバスで駅に戻り、午後1時半ごろの列車で江部乙に帰る。ときには旭川ではなく、妹背牛で降りることもある。いずれも長年のお得意さんが相手。知らない家に売りに行くことはほとんどないという。

 きょうは商品を少ししか持ってこなかった。というのは明後日、四国への旅行に出発することになっていて、あしたは行商に出ない。それで売れ残らないようにしたのである。

 付近では一番懇意にしているお宅に私たちもおじゃますることにした。なにしろ予告もなく突然カメラマンとともにドヤドヤと押しかけるのである。後の商売に差し障りがあってはならない。

 懇意にしているお宅だけあって私たちの訪問を明るく迎えてくれて一安心。ただし、写真だけ撮らせてもらって退散した。商売について回る取材をこれまでもしたことはあるが難しい。第三者がいるところで自然に振る舞うことは、特に客にとっては土台無理だと思っている。雰囲気をつかめればそれでよしとしよう 。

  昔は40キロのリンゴを背負ってで歩いた

 商品が少なかったので、行商は思いのほか早く終わってしまった。現代的で明るい旭川駅で帰りの列車を待った。その日は休日でカラフルな姿の若者でにぎわっており、昔ながらの行商姿で歩くおばちゃんはやはり目立つ存在である。

 駅内の店に入ってコーヒーを飲みながら話を聞かせていただいた。もちろん店内も若者だらけ。おばちゃんはその店に初めて入るという。かつて江部乙でリンゴの行商をしていた人々は80人にものぼり、列車1両 を埋めたほどだった。江部乙特産のリンゴが行商人の肉体によって旭川を中心と した家々まで運ばれていった。

 数年前までは10人いたという。しかし高齢化などで現在は4人。そのうち1人はミカンとりの出稼ぎに行ってしまった。1人はけがで休んでいる。もう1人は旅行中なので、きょうは三好さん1人だけである。
 「始めたころは1ヵ月の定期代が1200円だったのに、今は2万1450 円で高くなったよね」

 季節で一番つらいのは真冬ではない。
 「一年中だから吹雪でも人が思うほど寒いものでない。みぞれ、雨がつらい」
 服装は年中ほとんど変わらず、真冬には中に1枚余分に着るだけ。それで病 気一つしたことがない。もらったキノコに当たって半月ばかり休んだことがある だけである。

 むかしは18キロのリンゴ2箱分を背負った。かごの重さが5キロ程度なので合わせて40キロは優に超える。
 その40キロという重さが今一つピンとこな かったが、あとで増井氏が「コメ袋4つか」と言うのを聞いて実感した。いつも重い機材を持ち歩くカメラマンのほうが荷物の重さに関しては敏感らしい。
 そう いえば書き手はノートとボールペンくらいで商売している。

  孫からこづかいもらったよ

 発車時刻が来て滝川行き普通列車に乗り込んだ。車内でも話は続く。
 おばちゃんの自慢は子どもたちである。嫁いだ2人の娘は夫婦仲がよく愚痴一つ聞いたことがない。今年20歳になった孫がいて、のし袋入りの小遣いを初めてもらった。1万円札が入っていた。
 「孫からお金をもらった瞬間は何とも言えない。こんなに大きくなったんだな あって。なんぼ値あるかわからん…」

 私は20歳の倍近くにもなってしまったが、去年死んだ祖母に金をもらった思い出はあっても、あげた記憶はまったくない。私がのし袋を差し出したらどんなに喜んでくれたことか。自分のことをかえりみると落ち着かない気分である。




駅はリンゴとともに

 深川、妹背牛と北空知の田園地帯を走った列車が江部乙駅に到着した。駅員の菅井三男さんが笑顔で迎えてくれた。じつは三好さんを紹介してくれたのが彼なのである。

 企画を練る編集の打ち合わせで江部乙のおばちゃんたちの話が出た。なにせ鉄道を使っての行商は消えつつあり、脈々と現在まで続いている江部乙の行商人は魅力的である。しかし、はたして同行に応じてくれるかどうか。たとえ同行できても商売のじゃまになるのではなかろうか。不安があった。そこでおばちゃんとの橋渡しをしてくれたのが菅井さんをはじめとする江部乙駅の人々だったのである。

 この駅がユニークな活動をしていることは私も新聞報道などで知っている。駅の構内にはリンゴが4本と千両ナシが三本植えられ、秋にはその実が乗客に配られる。安全という文字の入ったリンゴをつくって配ったりもしている。

 「一度廃止になった駅なんですよ」
 国鉄時代の末期に駅は廃止された。ところが列車運行のためにどうしても江部乙に人員が必要だった。そのため人はいても駅の業務をやらない状態となった 。しかしJRとなり、人がいるのに駅の業務をしないのは不自然だと再開された。

 ユニークな活動はそれに端を発している。地元でさえ駅業務をやっていることを知らない人がいる。駅の存在をアピールするためには話題づくりが必要だったのである。そのかいあって、業績は着実に伸ばしているという。なるほど必要 に迫られて努力を重ねてきたわけである。

 「ここの駅員さんは本当に親切でね。朝は行ってらっしゃい。帰りにはおかえ んなさい。ごくろうさま。駅の中はいつもきれいにしているし…」
 おばちゃんも定期券の値段のほかはまったく不満がない。

 駅前でまず目立つのは2軒あるリンゴの問屋さんである。そこからおばちゃんたちはリンゴを仕入れ、行商に向かう。いわば補給基地である。かつては江部乙産のリンゴだけを扱っていたが現在は本州のリンゴも扱って 年中売り歩いている。それを可能にしているのが低温倉庫だという。

 そんな話を列車の中で聞いてどうしても見たくなってしまった。駅前の雪田林檎問屋でおばちゃんに頼んでもらった。

 摂氏零度に保たれている倉庫の中はリンゴの甘酸っぱいにおいで満ちていた。このにおいが強烈なため、ほかの物は入れないリンゴ専用倉庫である。地元のリンゴはほとんど出てしまい、これから青森などのリンゴが倉庫を埋めるのだと いう。それをおばちゃんたちが仕入れて売り歩く。

 得意客あっての行商、問屋あっての行商、JRあっての行商、その逆もしかり。それぞれが支え合って経済を形成し人間社会もつくられている。

 おばちゃんの周囲にはそうした人々とのほのぼのとした交流があった。私の周囲ではあまり味わえない温かな雰囲気が漂っていた。