第1回 ニラ −知内町−

フレッシュファミリーin産地

早春に香るニラの葉の葉緑

JAしりうち 玉森義春さん一家

 JAしりうちのニラ生産は質も量も自他ともに認める全道一。日本農業賞(銀賞)、北海道朝日農業賞をもらうなど、営農に関しても高い評価を受けている。

 2月中旬、玉森義春さんのビニールハウスでも収穫の最盛期を迎えていた。ハウス内に一歩入ると外の寒さがうそのような春の陽気。甘く刺激的なニラの香りで満ちている。一株一株大切に鎌で刈りとっていく。

 収穫されたニラは圧搾空気を利用した野菜仕上げ機にかけられ、薄皮やごみが落とされる。あとははかりを使って1把110グラムずつの束にしてテープでとめ、元を切りそろえて箱詰めされ、出荷となる。

 こうした一連の作業に家族労働は欠かせない。玉森さん宅でも義春さん、勝子さん夫婦、健さん由美さん夫婦の二世代の夫婦のほか、昨年まではキキヲさんも加わっていた。文字通り家族総出である。量が多くなる時期にはさらに二人のパートさんに来てもらう。

 ニラの生産が軌道に乗って農家には活気がもたらされた。若い後継者も数多く育っているという。

 義春さんの趣味は社交ダンス。数年前から始めたが今では人に教えているほど。健さんは四Hクラブの代表をつとめ、何度かテレビに出演。電波で「嫁さん募集」したことには関係ないが昨年結婚、もうすぐ二世が誕生する予定。

 そうした明るさも家族全員によるニラの生産がもたらしているように思えた。


イラスト 石川寿彦氏

食をめぐる冒険

札幌っ子の好みまで変えた
北海道を代表する知内ニラ

 午後4時過ぎ、JAしりうちの集荷所にニラの箱を積んだ組合員のトラックが続々やってきた。見る間に箱が積み上げられ、集荷所内を埋めていく。

 訪れた日は50束入り6キロ箱で約1400個。トン数にして8トン以上。ピーク時にはこの倍の3千箱ほどにもなるそうだ。

 午後5時、集荷が締め切られ今度は生産者による検査・格付け。8人ずつのグループが毎日交代し、サンプルを抽出しての検査に当たる。

 生産者の名前、番号は見ずに、中身だけで判断し、品質がA品(秀)の基準に達しないものはB品(優)の判定。サンプルがだめだとその組合員が出荷した同じニラすべてがB品となってしまう。

 この日も何人かがB品とされた。相場はA品が1束76.3円に対してB品は66.4円。13%も安いので、この格付け結果は深刻だ。

 箱にバンバン判が押され検査は終了。出荷先は札幌、函館、旭川、小樽、苫小牧、室蘭、帯広、釧路の道内八ヶ所の卸売市場。各市場への配分数が決まり次第大型トラックにベルトコンベヤーで積み込まれていった。

 翌朝の札幌市中央卸売市場。知内産ニラが大型トラックで搬入されてきた。ここでの知内産ニラの評価はすこぶる高い。

 担当の丸果札幌青果・山田憲二係長は、JAしりうちのニラに絶対の信頼を置いている。そして安定して大量に入荷する知内産の登場が札幌の消費者のニラの好みまで変化させたという。

 「ニラというと以前は細身のものが主流だったんです。ところが今では幅広で柔らかなニラが好まれるようになってきた。知内産のニラが出てきたことで消費者の好みも変わってきたと言えます」

 2月から5月にかけて知内産のニラは札幌市場を圧倒。ライバルの福島県産が入ってくるときでもシェアは50%を割らず、入らない時期は80%にも90%にもなる。

 完全に市場の主導権を握っている。このことは札幌に限らす道内主要卸売り市場でも同様だという。

 「ニラはもともと3月の声を聞いてからようやく出てくる、いわば季節商品だったんです。ところが知内産が2月から入ってきて、売れる時期が広まった。知内産ニラが冬場の需要をつくりだしたんです」(同)

  ニラは休眠しても農家はずっと考え続けた

 市場で圧倒的強さを誇る知内産のニラ。しかしその評価を得るまでには生産者は様々な困難に直面してきた。

 知内町でニラ栽培が産声をあげるきっかけは昭和46年のコメの減反政策。稲作を補完する新たな作物を探し始めたことだった。群馬県でニラ栽培に成功したという事例を「地上」(家の光協会発行)で知り、9名でニラ栽培研究会(知内町ニラ生産組合の前身)を発足。さっそくトンネルで試験栽培を開始し、当時先進地だった上川管内東神楽町や福島県、群馬県を視察した。

 しかし順調とはいかない。トンネルが強風で飛ばされたり雪に押しつぶされたり。ハウスにしてもやはり風で破壊されるなど風雪に翻弄された。

 しかし一番のネックはニラの休眠だった。春に種をまき、6〜7月に定植、そのあと株養成となるが、寒さとともに一時休眠状態となり、暖かくなって生育する。

 ところがそれまで府県で使われていた種は休眠が短く、寒さがきつくて長い北海道には向いていなかった。どうしても生育にムラができて売り物にならない。いろいろな品種で試行錯誤を繰り返しているうちに脱落者も出てくる。

 そんなときに出会ったのが仙台の渡辺採種場が売り出し始めた「たいりょうにら」という品種である。この品種、これまでのニラよりはるかに幅広で大柄、まるで花の水仙。しかし試験栽培してみると休眠が深く生育は遅いが安定する。しかも病気に強い。

 昭和54年「たいりょうにら」を初めて函館市場に出荷、好評をえる。そこで全員がこの春の播種から「たいりょうにら」に切り替えた。また57年からは全員にマルチ栽培を義務づけ、安定した生産がはかれるようになった。

 こうして栽培法が確立すると生産量、栽培農家も増えだす。昭和53年になってもまだ47年の開始当初と同じ9戸だったのが、57年には37戸に増え、62年には60戸、平成7年度には73戸となった。

 生産量も昭和54年まで十数トンに過ぎなかったものが58年には100トンを超え、平成七年は874トン。生産額も昭和56年には1000万円だったが、61年には1億円を突破、平成6年には最高の3億9千万円を記録、しかし翌7年は価格の下落で3億4千万円だった。

 1戸あたり平均すると平成6年が550万円、7年が470万円ほどになる。

 昭和63年には日本農業賞(銀賞)受賞、平成6年には北海道朝日農業賞受賞と、外からも高い評価。JAしりうちにとってもコメに次ぐ重要な作物となった。

 平成六年度の取扱高はコメが8億9千万円でニラは3億9千万円、その次はほうれん草の1億2千万円である。設備投資の大きいコメに比べれば、ニラは農家経営でもっとも魅力的な作物となっている。

  安定生産を続けるには団結力が欠かせない

 JAしりうちのニラは、知内町ニラ生産組合(宮上義隆組合長)による生産から出荷まで一貫した管理システムによって今日の地位を築いてきた。

 栽培はまず3月末から4月初めにかけての除雪、種まきから始まる。6〜7月、牛肥や鶏糞など堆肥を十分入れた土壌に定植、株養成。その後気温が下がると休眠状態となる。

 11月下旬、古い葉を掃除刈りしてきれいにしたあと組合員総出でビニールハウスを掛ける。このハウス掛けはすべて共同作業で、平成3年に暴風と大雪で52棟が倒壊したときにも全員参加し3日間で全部復旧させたという。それだけ安定生産に向けた団結力は強い。

 出荷の時期をずらすためハウス掛けは12月下旬、2月中旬と3回行われる。雪が積もったあとのハウスづくりでは除雪しなければならず、そのために除雪機が生産組合によって導入された。

 ハウス掛けの次はマルチ切り。カッターで1株ごとに穴をあけていく。成長してくると葉の表面に付く白い薄皮を取る作業。これをそのままにしておくと葉が曲がってしまい商品価値を損なう。それを1本1本取り除くのは根気が必要で「とってもとってもついている。これが一番いやな作業」(玉森健さん)というのもよくわかる。

 ハウス掛けをして1ヶ月ほど経て1番刈りの出荷となる。およそ1ヶ月後に2番刈り、さらに1ヶ月後に3番刈りと3回刈り取ってその年の生産は終了。翌年3回、その翌年も3回収穫し、この年だけ8〜10月に春秋ニラを収穫して廃耕となる。四年間のうち三年間収穫するわけだ。

 刈り取られたニラは個別に箱詰めされたあと生産組合自らが検査し各市場へ出荷している。


  知内町ニラ生産組合 宮上隆義組合長の話

 もともとここでニラの生産をしていたわけではないのですが「地上」で群馬県での事例を見て始めたんです。最初トンネルでやったら田起こし、種まきなど水田の作業とぶつかって。翌年からハウスにしました。

 2月の中ごろスコップで雪を割ってハウスをかけて、3月末に出荷できた。次の年には除雪機を入れたので3月中旬に出荷できるようになりました。商店の車に函館の市場まで運んでもらっていました。

 でも成功とはいえず、辞める人も出ましたよ。品種の特性を知るのに年月がかかりまして。昭和53年に「たいりょうにら」を使ってみて57年ごろ、ようやく今の栽培の技術を自分たちでつくったんです。

 2月から出荷するニラは無加熱でできるんですが、それを正月にできないか。でもやはり温度が足りずに休眠するようです。それで今年から試験的にボイラーを入れて1月4日から出荷しました。来年から本格的に1月から出荷する計画です。

 ボイラー1基でで灯油700リットル、3万円ぐらい。もっと温度は低くてもいいようでハウス二棟にボイラー1基で間に合うようです。


  JAしりうち 手塚喜代治組合長の話

 組合の管内には1200町歩の水田があってかつてはコメ一本だったんですが減反でコメとの複合経営をいろいろ模索するようになった。

 その中でもニラはコメに次ぐ作物に成長してくれました。出荷についても厳選しています。

 生産組合のみなさんの団結力が、市場にも認められる成果を上げたのだと思います。

家の光北海道版 1996年5月号

良いものを 各地から