46 悪戦苦闘 十二月初めに新しいパソコンを買った。 新型は高いので旧型にしたが、付属 のソフトも旧版。しかし最新版への無償グレードアップ付きで、正月明けには二 つの新しいソフトが送られてきた。 パソコンの世界は横文字だらけ。それに五年ほど前に買ったヤツとは大ちがいで、機能は巨大になった。 それだけ世界が広がったわけだが、その分操作は複 雑で覚える方も大変。ウンともスンとも言わなくて真っ青になったこと数回。パソコン通信に至っては、五回ほどトライしてやっと一ヶ所成功したのみ。 時間はどんどん過ぎていき、夜中の二時、三時は当たり前。でも不思議と飽 きないのはなぜだろう。 小学一年の娘の行動を見ていて、なるほどと思った。 学習雑誌が送られてく ると、真っ先に取り組むのが付録の工作。説明文などろくすっぽ読まずに始めるから、どうしても失敗してしまう。 「ちゃんと説明を全部読んでからやれよ!」 と声をかけて、待てよ、この言葉は自分に聞かせた方が良さそうだ。 パソコンは要するにおもちゃなのだ。だから夢中になって時間を忘れる。 こ の原稿を打っている間にもトラブった。紙を使わない直接FAXでうまく送信できるだろうか。悪戦苦闘はまだまだ続く。 1996/1/24 47 「静かな湖畔」は今… 先日オホーツク海沿岸を旅した。流氷が来ると突然シバレが襲ってくるとい うが、その直前で、でも私には十分シバレるオホーツクの風だった。 サロマ湖畔の芭露を訪ねたとき、湖に注ぐ川は凍り付いて、氷に穴をあけての釣り人でごったがえしていた。チカやキュウリウオが釣れるという。男性も女性も楽しんでいる。 平日にもかかわらず川沿いの細い道には駐車した車がびっしり続く。これが休日ともなれはお祭り騒ぎなのだという。これだけならただの氷上釣りのメッカに過ぎないが…。 この河口はれっきとした漁村で漁業者の家や作業小屋が並んで いる。 夜中でも車のエンジンはかけっぱなし。特にディーゼルエンジンはうるさく 、クラクションもお構いなし。 軒先の薪を持ち出して燃やす、フォークリフトの パレットを川に投げ入れて足場に使う、薪以外にも燃やせるものは何でも燃やす。軽油タンクから油を抜く。ある時はあまり堂々と抜いているので、家人が知り合いの人だと思ったほどだという。 そして春になると一面のフン害。それが小屋の中にも。女性が多いためかもしれない。 釣り人は自然を満喫しているつもりだろうが、そこは庭先なのだ。マチではとうてい許されないことが起こっている。 車のナンバーは地元北見よりも旭川ナンバーが断然多いそうだ。 1996/2/23 48 春のスクールあれこれ 毎週一回通っているスイミングスクールの若いコーチたちが巣立ちのときを迎えた。 体育の専門学校の学生で、一人は病院のリハビリ関係、もう一人は稚内のスポーツクラブに就職するという。残雪を照らす春の光のように彼らの姿はま ぶしい。 そのスクールで一緒にクロールを習っているお姉さんが辞めたいと言い出した。歳のころは五十前後。孫が生まれたとかで休むことが多かったが、このごろは毎週来ている。ところが一向に上達しないので、自信がなくなったというのだ 。 聞けば五年ほど前から通っていて、ほかの人はどんどん先に進むのに彼女だけ取り残されているという。 なるほどクサるのもわかるような気がする。いわば登校拒否寸前バアさんなのだが、そうした悩みに年齢はまったく関係ないらしい 。 彼女を引き止めるための飲み会が始まった。 ビールをグイグイやって、あのコーチがいいとか、もっと別な練習方法があるはずだとか、ガンガン話しているうちにだいぶ落ち着いたようで、辞めないことになった。 やっぱりスクールで大切なのは仲間である。 1996/3/27 49 現代の旬とは? 二月に道南の知内町でニラ、三月には旭川の隣の比布町でイチゴと続けてビ ニールハウスものの農作物の取材をした。 あたり一面は雪景色だがハウス内は別 世界。ニラはあざやかな緑、イチゴは真っ赤に色づき、すでに春から初夏のいろどりである。 そんな取材をしていて、はて現代の旬とは何なんだろうという疑問が湧いてきて、私なりに考えを整理する必要に迫られた。 夏は体を冷やす野菜や果物、冬には暖めるものを食べることが健康を保つために大切だとよく聞く。その季節に採れるものを食べ、冬には根菜類など保存できるものを食べよと。 確かにジャガイモなどはデンプンだけでなくビタミンCがたくさん含まれ、 ニンジンなども栄養が豊富。冬は越冬野菜だけを食べていれば済むという考えも成り立つだろう。 それじゃまだ雪が残る季節にニラやイチゴを食べてはいけないのだろうか。 そこで私は現代の生活様式を考慮に入れたいのである。 暖かい家に住み、外に出ても車を使い、着る物も昔とは全然ちがった保温性。そんな環境にいる人間 がニラやイチゴを食べたいのはあたり前なのではなかろうか。 人間が暖かい家の中で暮らし始めたのに、食べ物は遅れていた。それがようやくハウスに入りだし た。 旬はハウスの中にもあるのだと。こじつけだとは思わないのだが…。 199 6/4/23 50 桃太郎 このごろのトマトは甘くなった。色も従来の薄い色ではなく濃い赤色。桃太 郎という品種か、それに類似した品種なのだそうだ。完熟系トマトといわれてい る。 先日、平取町や森町のトマトの産地を取材して、完熟系トマトとはどういう 意味か聞いてみた。要するに完熟した状態で保存が効くということらしい。 従来の品種は熟すとすぐに悪くなるので保存ができず、流通が難しかった。 商品としては、まだ青さが残る状態で出荷していたので、完熟の味は望むべくも なかった。 それが桃太郎の出現で克服され、全道でつくられるようになったとい うわけである。 桃太郎という名前もおもしろい。小ぶりのものは先が桃のようにとがっているのでつけられた名前だと思うが、トマトに桃だから良かったのかもしれない。 逆に桃の新品種にトマトマンといった名前は絶対付かないような気がする。何と なくトマトより桃の方が格が高いような気がするから。 それでも最近は「リンゴスッター」のジュースの宣伝にビートルズのリンゴ スターが出てくる御時世。ドデカボチャという巨大メロンや大根足という白いスイカが出てきてもおかしくない。 こんな風潮でいいのだろうか。私は大変よろ しいと思う。 1996/5/31 ※あとで分かったことですが、桃太郎の名はトマトの学名(ラテン語)の「オオカミの桃」から来ているとのことです。 51 培土遅れを食する 札幌から国道二三〇号を走り中山峠を越えて平地に下りたあたりに「亜木人」という軽食・喫茶の店がある。今月初めこの店で「培土遅れを食する会」という催しがあった。 バイドオクレ? 何やら怪しい響き。呼んでくれた人がいたの でワクワクしながら参加させていただいた。 喜茂別町の名産品といえばアスパラ、それも町内に缶詰工場があることから国内随一のホワイトアスパラの産地でもある。 培土とはそのホワイトアスパラを作るときの盛り土をいうのだそうだ。土を盛らなければグリーン、土を盛ればホワイト。ネギと同じだ。 培土をする前には、一度畑をきれいにならす。次にアスパラの出る所に土を 高く盛って「山と谷」をつくっていく。でもそのときすでにアスパラが土の中でホワイトアスパラ状態で大きくなっているのだ。 売り物にならない年に一度だけ のそのアスパラを食べようというのがこの会なのである。 甘い。みずみずしい。それでいて何か力強さが感じられる風味。ゆでただけのものをマヨネーズなど思い思いの味をつけて食べるのだが、いくらでも食べられる。 農家にとって缶詰工場に出荷するホワイトアスパラは現金と同じ。ハウス栽培などなかった時代、売り物にならない「培土遅れ」はひそかな「春一番」の楽 しみだったんだろうな…。 1996/6/28 52 熟女パワーの内側 水泳教室に通って二年近くになる。金曜日の夜のコースで、十数人の生徒のうち男は三人のみ。女は平均五十歳前後といったところ。 元気がいい。一時間ぶっ続けで泳いでもへこたれない。こっちは十五分くら いが限度。となりのエアロビックスでもレッスンを受けているのはほとんどが女 。一時間ほど動き回っている。私なら五分もつかどうか…。 幼なじみで仙台に住んでいる女がダンナと北海道旅行に来て、札幌のホテルに一泊した。エアロビックスをやっていて三年ほど前から本格的に練習。東北・ 北海道の大会にも出場したという。子どものころスポーツはそれほど好きではな いようだったのに。 そして三十九歳のときに一年間で背の高さが二センチ、足の 長さが〇・五センチ伸びたのだそうだ。 ススキノでビールを何杯もグイグイ。長年単身赴任中というダンナはといえば、ビールを一杯とあとはチューハイを少々。えらいちがいである。 もう十何年も前になるが、その幼なじみが「私、キッチンドリンカーになり そう」と言ってきたことがあった。今は自分の生き方を自分で見つけだしているようだ。 恐るべし、女たち。しかしその表面とは別に、内側にはみんなそれぞれの思いがある。そんなこともこのごろ感じ始めている。 1996/8/1 53 花時計よ永遠に! このコラムに参加させてもらったとき、花時計という名前に特別な親近感を感じたものだった。というのも私の一人娘の名前が花子だったからである。 あれから四年八ヶ月が過ぎたというが、なるほどスクラップブックに貼った切り抜きは一九九二年の一月から始まっている。 その間、娘も三歳から七歳に、 幼児から少女へと成長した。 私は学生時代にちょっと落語をかじったこともあって、ユーモアのある、できれば大笑いしてもらえる文章を書きたいといつも思っている。 そうした意図が通じて読者から「おかしかった」と言われたときには大いに喜んだものだった。 逆に何の反応もないときには、もっと工夫しなければ、と反省した。 四年半余りにわたって自由に書かせていただいたことは、フリーライターと いう職業にとっては得難いことだったし、今後の仕事の展開にとっても大きな糧 となってくれるだろうと思う。 花時計よ、ありがとう。花時計というコラムは消える。しかしこれからも花に飾られた時計が永遠に回ることを祈らずにはいられない。 心の中の時がまるで花時計のように美しく回り続けることを。 花時計はー、永遠にー、不滅でーす ! 1996/8/31 ※この私のコラムを最後に読売新聞道内版のコラム「花時計」は終了しました。 |