花時計 1995年分
35 ジンギスカンの名づけ親 「私がジンギスカンという名前をつけたんです」と突然その人が言った当初 、まったく信じていなかった。 しかし話はあまりにも具体的で、納得のいく説明だった。家に帰って関係書物を調べてみて、なるほどという気になってきた。 今は食の歴史においての一大スクープをモノにしつつある気分なのである。 羊の焼肉ジンギスカン。このネーミングがなければ、北海道の料理としてこれほど定着していなかったにちがいない。 羊肉とジンギスカンを結びつけたのは 、その人によれば「ジンギスカン将軍」という戦後のアメリカ映画だったという 。 モンゴルの祖ジンギスカン(チンギスハン)は西方に遠征し巨大帝国を形づくったが、その原動力となったのが羊たちだった。羊は自走する軍糧だったのだ。 かぶと型をしたジンギスカン鍋はその人が考案し、鋳物工場でつくってもら った。 経営を始めた一杯飲み屋で出したジンギスカンが酒の安さと相まって人気 を博し、学校の先生の内部資料で取り上げられてからは日中は家族連れで店がにぎわった。 同じような形の鍋がどんどん生産された。商標も意匠も登録しなかったので普及の障害もなかった。 その人というのは在日韓国人の崔東洵さん。マルゲン観光の社長さんで札幌駅前の焼き肉店「金剛山」を経営している。 1995/1/27 ※羊の焼き肉料理「成吉思汗(ジンギスカン)」はそれ以前に東京の料理屋などで出されていたことが当時の新聞などで明らかになっている。しかし私には崔さんが出まかせを言っているとはどうしても思えない。崔さんの頭のどこかに成吉思汗があり、それが映画でよみがえり、料理への命名になったのかもしれない。 映画の「成吉思汗」は確かに上映されている。そして狸小路で成吉思汗料理を提供し、その後の広がりを担ったのは事実だろう。 36 先生の出向 正月に小学校の先生をしている友人と飲んだとき、先生が余っているという話が出た。いま小学校では生徒が少なくなって先生が余り、一クラスに二人の先生がついて教えているところもあるという。 それならば、二年くらい先生を離れ、ほかの仕事を体験して、また先生に戻れば、もっとよい教育ができるのではないかと提案した。なにしろ先生というのは生まれてこのかた家庭と学校以外の生活を知らない、要するに世間知らずなのである。 友人は大賛成で「それじゃデパートででも働いてみるか」というが、デパー ト勤務経歴を持つ友人のカミさんは「そんな甘いもんじゃない。あんたに勤まるわけないでしょ」。それでも友人は乗り気である。 函館で小学校の先生をしている友人のカミさんに同じことをいったら「私も やってみたい」。中堅どころの先生たちは自分たちの限界を知っている。 小学校の教頭を交えての飲み会でそんな話をしたら、みんな大賛成だった。先生は世間知らず、というのはみんなの一致した見方だった。スーパーでも行政でも土建業でも自衛隊でも先生以外なら何でもいい。出向の制度ができれば、学校はもっと懐の深い教育の場になると思うのだ。 1995/3/1 ※その後、先生たちのこういう制度が発足したという話しも聞いたが… 37 腑に落ちない酒屋 先日ある団体の事務局長と話していて酒屋のことが話題になった。 彼の近所にしゃれたつくりのディスカウント店がオープンし、毎日寝酒に飲んでいる焼酎をまとめ買いしようと出かけたのだそうだ。 ところがレジのところに来てびっくり。消費税を払えという。結局いつも買 っている酒屋とほとんどかわらない値段になってしまった。 「すでに酒税が入っ ているのに消費税とは…」と事務局長はまったく納得していない。 私の家の近くにも同じチェーンの店が二年ほど前に進出している。店内は明 るく品ぞろえも悪くない。しかし消費税はバッチリとる。 例えばどの店でもチラシなをど出して宣伝するとき三五〇ミリの国産缶ビー ル一ケースは四千円を切るのが常識になっている。この店も確かにチラシでは四 千円を切っているのだが、消費税をレジで請求するので結局は四千円を超えてし まう。 酒で消費税をとるのは私が知っている限りこのチェーンだけなのだ。 うちのカミさんはこの店にほとんど行かない。以前、店の床に置いてあった高級日本酒の一升びんを引っかけて壊してしまい、その代金を払わされたからである。 従業員は払うのが当然という顔だったという。 すべてがふに落ちないディ スカウント酒屋なのだ。 1995/4/1 ※その後このディスカウントチェーンは倒産した 38 後天性先頭症候群 十年ほど前、選挙に立候補した人々の名前をながめていて、ふと気づいたことがあった。 あ行の名字がやけに多いのである。電話帳で調べてみると、確かにあ行の名字はか行やさ行などほかの行に比べて多いが、選挙に出る人数の割合は もっと多いのだ。 なぜだろうと考えた末、一つの仮説を立てるに至った。学校教育の出席番号が関係しているのではないか。すなわち五十音の順番が人間の気質をつくりあげ ているのではないか。 例えば先生が教室に入ってくる。するとまず出席をとるから若い番号の者は 緊張している。 後ろの方はのんびりしたものだ。先生の質問に答えるのも出席番号一番、二番…。健康診断を受けるのも、予防注射を打たれるのもあいうえお順 である。 こうなると出席番号上位の人はどんどん度胸がついてきて、これが何年も続 くと立派な気質になってしまう。人より先に立たないと気が済まず、後ろにいると落ち着かなくもなってくる。 今回の統一地方選挙でもやはりあ行の候補は目立ったが、以前よりは少なく なった気がした。 候補者を絞り込んだためかもしれない。また新たにわ行の人が多いことにも気づいた。先生によっては出席番号を後ろから使うので、同じ緊張感を持って育つのかもしれない。 1995/5/11 39 気が引ける車 去年中古のワゴン車を買った。ワンボックスタイプの人気車種である。いつ も世話になっている近所の整備工場で、普通の中古車販売店で買うよりかなり安 くしてくれた。 使い勝手は申し分ない。取材や三人だけの我が家で使うにはスペースに余裕 がありすぎてもったいないほどである。 燃費もいい。ディーゼルエンジンなので ガソリンエンジンだった前の車の二分の一ほどの費用になった。いいことずくめ だった。 整備工場の社長さんが「このタイプは煙が出ますよ」と言っていたが当初は気づかなかった。 しかしアクセルを踏み込むたびに後ろからモクモクと真っ黒な 煙を出しているらしい。自分で運転している限りは分からないが同じ車種を見ていて分かった。 上り坂で「現代のSL」というふうに黒煙を吹きながら上っていく。におい もきつい。 その排気ガス攻撃にさらされる後ろの車はたまったものではない。窓 を閉めたり距離を広げたり。楽しいはずのドライブがめちゃくちゃだろう。 私がこの車を買わなくても誰かが買ってやはり黒煙をあげていたはずだ、と いうのが私の言い訳である。 しかしさわやかなこれからの季節にはますます気が引ける。大気汚染といった大きなことまで気は回らないが、後ろの車に申しわけないと思う気持ちはつのるばかりなのだ。 1995/6/10 40 友情お迎え軍団 朝食を済ませて新聞を手にトイレに入っていると聞こえてくる子どもたちの声。話し声にキャ−とかワ−とかの叫び声がまじった子ども集団独特の音。それがどんどん近づいてくる。 そんなとき私は、ありがたいという感謝の気持ちでいっぱいになる。 我が一人娘が小学校に入って三ヵ月が過ぎた。最初は元気に通っていたが五月末の運動会が終わってから学校に行きたくないと言い出した。 だれかにいじめ られている、というのではないらしい。ただ単に学校がおもしろくないという漠然とした理由らしい。 先生によると、娘はああ言えばこう言うタイプで、いちいち言葉で切り返してくるのだそうだ。 そんなことには気づかなかった。そのタイプならもっとスゴ イのが家にいて、娘なんかはたいしたことはない。 「どうして学校へ行かなくてはならないの」とごたくを並べて一度休んだ。 また休みたくなって今度はギャンギャン泣き。心配した先生の差し金だろう。朝 にクラスの友だちが大勢で迎えにきた。それでも行きたくないと、部屋の奥に隠 れる始末である。 さすがに頭にきて、娘の頭をポカリ。泣き叫ぶ娘の手を引いて友情お迎え軍 団に追いついた。それから毎日、彼らは迎えにくる。娘は、行きたくないとは言 わなくなった。 こんなことがあったなんて、何年かすれば娘はすっかり忘れるんだろうな。 1995/7/13 41 愚安亭さんの音楽劇 松橋勇蔵さん(芸名 愚安亭遊佐さん)の芝居をご覧になった方は多いのではないだろうか。 青森の下北半島の出身で、彼の母親や父親などをモデルにした一人語りの芝居をしている。 母は留萌管内苫前町の出身でニシン場の親方の娘だったが、家が没落し、青森に渡って旅館で働き、下北は浜関根という小さな漁村の漁師に嫁いだ。 父は八戸生まれ。父親が農家の次男だったため、食っていくために一家は北へ旅立ち、着いたところが定住者がまだいない浜関根だった。 この二人の波乱に満ちた生涯が独特なユーモアを交えながら語られていく。 こともあろうにその浜関根に突如として原子力船むつの母港が建設された。愚安亭さんの芝居は、国の政策によって静かな漁村社会が破壊されていく様子も生々しく伝えることになる…。 この夏、キャンプ旅行ついでに道北の中頓別町にいた愚安亭さんにお会いしてきた。八月に中頓別・鹿追・浦幌・札幌の道内四ヵ所で行なわれる野外音楽劇の合宿練習中だった。狩猟・採取文化の再認識がテーマの一つだという。共感で きる話だった。 劇の問い合わせ先は北海道演劇財団設立期成会 電話011・2 81・0775 1995/8/10 42 野外劇での感動 先月にこの欄で書いた愚安亭遊佐さんの野外音楽劇「祭」が終わった。札幌ではばんけいスキー場が会場。涙がこぼれるほど私には感動的な劇だった。 縄文の村に、別の村に嫁いでいた娘が助けを求めて逃げ帰る。強力な軍隊を持った者たちが土を掘り返し木を切って大地を破壊しているという。 助けに行くべきかどうか話し合いはつかなかったが、数人の男たちは勝手に出かけ、結局一人しか帰って来なかった。長老を除く村人全員が武器をとり…。 私は長く水産業の報道に携わってきたが、今、ある思想が野生動物をとる漁業という生業の行く手に大きく立ちはだかっている。 野生動物を食うか食わないか? 家畜は食われるために生まれてきたが野生動物はそうではないから食わないほうがいい、という論理に明快な反論ができないでいる。 「おれたちは、ほかの生き物の命をもらって、生かせてもらっているんだ」 劇中、長老が諭す場面がある。そうなんだと私は目頭をあつくした。人間はほかの生物から命をもらい、感謝しながら生きていくべきなのだ。 命には家畜も野生もない。縄文に学べ。各地で発見される遺跡は、身勝手すぎる現代人への先人からの啓示なのだと思う。 1995/9/8 43 シシャモの旬 魚がうまいことでは定評のある札幌市内の居酒屋で久しぶりにシシャモを食 べた。 北海道産とうたってあったが、味の方はイマイチ、いやイマニくらい。刺身などほかは期待どおりで、シシャモの味だけが納得できない。ああやっぱりと ため息が出そうだった。 サケと同じように海で育ち川に上って産卵する。この時期が近づくとシシャ モは沖合から沿岸に寄ってきて、さらに河口近くに集まってから一斉に川に上る 。 産卵直前にシシャモは急速に成熟する。体の栄養分が卵や白子に集中するので身から脂分が抜ける。 それを生干しにして軽くあぶって食べると、何とも言えない上品なおいしさなのだ。卵はポリポリ音が出そうな歯ごたえ。ただし身の味ではオスの方が上である。 アキアジなどは身に脂が残っていた方が高級とされ、 産卵直前になるとブナと呼ばれて価値は落ちるが、シシャモはその逆である。 シシャモは川に上る一ヵ月ほど前から海で漁獲される。早く獲れたものは身から脂がまだ抜けていない。種類がまったくちがう輸入シシャモと大差ない味になってしまうのだ。 次に本物の味に出合えるのはいつなのだろう。 1995/1 0/12 44 パソコンいつ買う 五年ほど前に買ったノート型パソコンを使って原稿を打っている。この夏それが故障してフロッピーに記憶できなくなってしまった。 かなり長い文章を打ち込んでいて、電源を切れば文章も消えてしまう。 カミさんのワープロを借りて画面を見ながらひたすら写した。原稿用紙に写す方法もあるが、あとで推敲したり行数を整えたりするにはやはりワープロでな くてはならない。 しかしキーの操作方法がちがうので、その苦労たるやワープロを初めて使ったころとほとんど同じ。丸一日かかってしまった。 修理を頼むと二万七〜八千円かかるという。予想外の高さだったが、仕事に必要だから直してもらうことにした。ところがその日の夕刊の広告を見てうなってしまった。 私のよりずーっと上のノートパソコンが十万円を切っている。ありゃー、買い替えりゃ良かった。 ウィンドウズ95が世間を沸かしている。私もそのうち使うことはっきりしているのだが、それ用のパソコンをいつ買うかは迷っている。次々に新製品が出てくるのでタイミングが難しい。 新聞、チラシ、雑誌のパソコン広告に『目が皿』 状態はいつまで続く? 1995/11/11 45 番屋の夜なべ談義 留萌市の隣、小平町にある旧花田番屋は海岸を走る国道沿いに建つ勇壮な木造建築で、ニシン漁の隆盛のあとを今に残している。 国の重要文化財に指定され 五月から十月まで内部を見学できるが、冬場は閉鎖されている。 その花田番屋で今月の十一日から十二日にかけて「番屋夜なべ座談会」という催しがあった。 鍋を囲みながら、華やかだったニシン漁をしのび、この建物の将来構想などを語り明かす。 以前稚内で、夏至の日にニワトリが朝の何時何分何秒に第一声をあげるかを 徹夜で待つという催しがあって参加し、忘れがたい思い出になった。そんなこと もあって、小平町の催しを知って参加させてもらった。 夜なべ談義の内容は興味深いことだらけだった。この番屋は洋風の建物なのだそうだ。というのは函館に外国人によってどんどん洋館が建てられたので松前の大工さんが洋風建築の技術を習得していたため。また番屋とはもともと役人の詰め所で、それが北海道では漁師が寝泊まりする建物をいうようになった。 午前四時三十分、酒酔いと眠気には勝てず、漁夫たちが八十センチ間隔で並 んで寝たという板の間で寝袋に入った。 そのときノートにはグチャグチャの字で こう書いていた。 「4:33 寝ます。起きているのは二人だけ。聞こえるのは残念ながら波の音ではなく、ひっきりなしに通るトラックの音だった」 この番屋が存在するのはまさに現在なのだ。 1995/12/14 |