花時計     1994年分

24   初夢
 夢というのは目覚めるとすぐ忘れてしまうので、おもしろいのを見たらまくら元の紙にメモすることにしている。
 ?後の未来の朝。しこたま飲んであまり寝ておらず、ふらふらしながら自分の車に乗り込んだ。運転席で目的地をセットし、後ろの席に転がって横になった 。
 車はひとりでに動き出し、三十分も寝ていれば目的地に着く。自動運転の車が 実用化されたらしい。
 ところが眠れないのである。心配で眠れない。こっちの車が行儀良く走っていても、向こうからぶつかってくるのは避けようがない。人が飛び出してきたらどうするんだ。そう考えると寝ていられない。
 これはダメだ、と体を起こし、前の背もたれにしがみつきながら前方を注視 した。その怖さは初心者の運転につき合わされている、なんてもんじゃない。
 や っぱりダメだ。とうとう座席を乗り越え、自分で運転を始めてしまった。酔っぱらっているのはわかっている。しかし酔っぱらいの運転より機械の運転の方が危 ない、という酔っぱらいの判断で…。
 これは初夢。ただし今年のではない。去年のである。今年の初夢は忘れてしまった。メモするほどのものではなかったようだ。
     1994/1/12

25   二十年前
 ヨークマツザカヤが店を閉めたというニュースを聞いたとき、大学に入って間もないころの体験を思い出した。
 ひょんなことで大学祭の事務局に入り、最初の仕事がパンフレット広告とりだった。
 新人ということで行かされたのが札幌に進出したばかりの松坂屋デパー ト。話を持ち出すと、若い担当の人が裏表紙の全面広告をOKしてくれた。紳士服の広告だった。
 これがどれほど価値あるものかは数日してはっきりした。ほかのデパートもつき合ってくれたが、どれも松坂屋の八分の一程度で喫茶店と変わらない額だったからだ。
 広告の版下を取りに行ったときだった。担当者が、料金をまけてくれないか、と切り出してきた。
 札幌進出で気負いがあり、地元の大学祭に大きな広告を載せようとしたものの、そのあとにも広告の依頼が次々にやってきて、困惑しているようだった。
 破格の大広告は、札幌に来て間もない学生とデパートマンという新人同士の気負いの産物だったわけである。
 今年、札幌の大学を受ける高校生が我が家に泊まっていった。彼が生まれていないころにそんな体験をした。
 年を計算すればまちがいなくそうなのだが、実感はまるでない。
     1994/2/16

26   視力回復作戦
 朝刊の広告でアレッと思った。三つの健康雑誌が出ていて、そのうち二誌で視力回復法を取り上げていたのだ。
 いわく「近視が本当に治った!老眼も近視もよくなる!〈のぞき穴カード〉」「近視も老眼もメガネが不要になった〈視力回復カード〉の威力」。
 自慢じゃないが、こっちは小さいときから近視もち。高校一年のとき、柔道の寝技で左目を強く押されてから急激に悪くなり、予備校時代にさらに悪化、〇 ・〇いくつという視力で、裸眼では十センチも離れると焦点が合わないくらいなのだ。
 でも二誌に出ているとあっては見逃せないので、書店で両方買ってきた。読 んだら、やり方はだいたい同じである。
 眼球を取り巻く筋肉を伸ばすため、視線を左右上下に限界まで動かしたり、 様々な距離に焦点を合わせる訓練をする。
 要するに柔軟体操で体を柔らかくし、 筋肉を強くするといった方法である。 説得力があると思った。そして五日ほどやってみると確かに効果があるようなのだ。
 果たして三カ月後、メガネ業界に対して宣戦布告することになるのか。それとも「これからもよろしく」とお願いすることになるか。
     1994/3/22

27   積雪都市の交通
 四月も下旬になるというのに我が家の庭にはいまだ雪が残っている。この冬の大雪にはほとほと参った。
 雪かきがいやになり、車は正月過ぎから雪の中で眠 ったままだった。
 そしてこの冬ほど雪と交通について考えさせられたこともなか った。
 考えた末、私がたどり着いた結論はこうだった。完璧な除雪をしても財政がもたないだろう。交通を別な角度から見直し、独自のシステムをつくり出さなければならないと。
 たとえば積雪期だけ、まったく使わない車、土日しか使わない車、毎日使う 車、と三種類に分け、その識別票をフロントガラスに明示させる。
 交通調整公社を新設し、毎日使う車から一シーズン三万円を徴収、逆に土日しか使わない車には二万円分、土日も使わない車には二万五千円分のウイズユーカードやオレンジ カード、中央バスの回数券を配布する。
 もらった券を使わない人は金券ショップで売ってしまえばいい。金を払った方も、道路から車の数が減るので時間、燃料の節約になる。
 路線バスを増発し、 足りない分は観光バスを投入する。いまや札幌は車紛公害の解消で世界の先頭にいると思う。
 冬の膨大なムダを解消する新システムもできないわけはない。
     19 94/4/23

28   プッツン皿
 カミさんが三枚の丸い皿を買ってきた。中に三つのへこみをつけた、お子さ まランチの皿を大きくしたようなヤツ。朝食の皿をこれだけで済まそうという、 合理化食器である。
 高くて手が出なかったが、最近ようやく安くなって飛びついたのだそうだ。 特殊加工で薄くて軽く、床に落としたくらいでは割れない丈夫さを売り物にして いる。皿のほかにもティーカップなどいろいろあるらしい。
 それが割れた。
 落としたのではない。熱いお湯をかけたのでもない。テーブ ルにただ置いた皿が何の前ぶれもなく、パーンという弾ける音とともに真っ二つになってしまった。
 超自然現象がついに我が家でも起こったのか? しかし今までそういうことには縁遠かった。
 きっとこれは軽い、薄い、丈夫といった優等生が、本当の自分はこんなんじゃない、とばかりプッツンしてしまったのだ。
 一年間の保証付きということで、工場からミカン箱より一回り小さい段ボー ル箱が送られてきた。
 もしかしたら迷惑料にティーカップでも入れてくれたので は、とちょっぴり期待して開けてみた。
 ところが出てくるのは紙ばかりで最後に皿が一枚。丈夫な皿の異様なほど厳重な包装に思わず大笑いしたのだった。
     19 94/5/31

29   視力回復作戦その後
 健康雑誌に出ていた視力回復トレーニングを始めて三ヵ月が過ぎた。結論を先にすれば、なかなか思うように視力は回復してくれないということだ。しかし目の調子は以前と比べものにならないほど良くなった。
 始めて一ヵ月ほどで効果ははっきり現れた。六年前のメガネに取り替えて、 そのまま支障なく使いだしたから、視力の数字で〇・三くらいは良くなったと思 う。
 しかしそのあとの目立った回復はない。あまり良くならないからトレーニン グをさぼる、すると当然にも良くはならない、という状態だと思う。
 私の場合、車の免許をとった高校三年生のときがメガネ常用の始まりだっの で、二十年以上も前ということになる。
 近視の期間が長ければ回復もそれだけ時間がかかると雑誌にも書いてあった。気長にやるしかないようだ。
 それでも本がメガネなしで読めるようになった、目の下にあったクマがいつ の間にか消えて肌色になったなど、トレーニングで得たものは多い。
 ただしメガネ業界との決別はできなかった。逆に新しいメガネをつくる必要に迫られている 。昔のメガネなんてとっていない。
 今後さらに視力が回復すれば度の低いメガネを次々につくっていかねばならないのだ。
     1994/7/1

30   夫婦別姓
 高校の同級生の名簿が送られてきたとき、何だこりゃ、と思ったことがあった。
 男の二割ぐらいが姓を変えている。特に地元に残っているヤツは大半がそう だ。婿養子である。
 私たちは団塊の世代の次で、長男より次男、三男が多い。だ から地元にいると養子に乞われる。
 私も山形県に残っていたら姓が変っていただろう。親父もそうだから抵抗はない。
 夫婦別姓が法制化されようとしている。そう望む人がいれば法律もそうあるべきで、異存はない。
 ただ気になることもある。今の夫婦別姓の動きは、女の仕 事社会での地位の低さを別姓で克服しようという一手段にすぎないのではないだ ろうか。
 確かに別姓で通す女は頼もしく、男と同類というイメージがある。
 しかしそれが私には、すべてに仕事が優先する歪んだ社会の裏返しに見える 。姓の変った男が仕事場で不利を被っているというのは聞いたことがない。
 あの人、婿養子だから…、といったハラスメントはあるかもしれないが。
 家庭生活では同姓が便利。今後、仕事も個人生活も大切にするような社会になっていくと、夫婦別姓を選択する人はあまりいなくなると私は見ているのだが …。
 ちなみに我が家は夫婦別姓、みたいなものである。
     1994/8/4

31   怪しいヤツ
 夏の暑い日、警察官がやって来た。近所で強盗があったという。アパートの二階の若い女性の部屋に窓から男が押し入り、金品を奪って逃げた。それを調べているという。
 「きのうの三時ごろ何をしてました」
 と聞いてきたので、これはただの聞き込みではなく、疑われているのだと気づ いた。
 確かめてみると三時は三時でも午前三時。きのうといっても感覚的にはおとといの夜である。家にいたことは間違いないが、さあ、どう答えよう。
 とりあえず「家にいました」と言ったら「そうでしょうね」とあっさり引き下がった。
 そして「こんな顔なんですが」と似顔絵を見せた。髪を真ん中で分けた典型的な今の学生の顔である。もちろんひげはない。一晩で私のようなひげづ らになるはずがない。
 警察官も一目見て、これは違うと思ったらしい。
 あとでどうして私が疑われたか考えてみた。日中でも家にいる得体の知れない男、といったら近所で私くらいなものだろう。時々夜中に徘徊していることも 事実。誰かが「怪しい男がいる」と教えても文句は言えない。
 きょう生け垣の手入れをした。春にやったきりなので伸び放題だった。これで家の外見はすっきり。少しは怪しくなくなったかな。
     1994/9/6

32  芋煮会
 故郷の山形県では稲刈りが終わるころ芋煮会のシーズンとなる。里芋、牛肉 、こんにゃく、ねぎを砂糖、日本酒、醤油で味付けした鍋で、これがめっぽううまい。
 食べたことのない人には、すき焼きに似た味、と説明している。学校や職場など様々な仲間が川原や湖畔に繰り出して、鍋を囲み親交を深め合う。
 北海道に来て、何度か芋煮会のまね事をやってみた。でもどうもしっくりい かない。
 まず天候が悪い。里芋が豊富に出回る時期、本州方面は晴天がつづく。 しかし札幌あたりの天候は不順そのもので予定を立てるのが難しい。
 もう一つ。芋煮会では里芋を各自が前もって皮をむいて持ってくるのが原則 。たくさん食べたい人は多く持ってきて、少しでいい人は少量を持ってくる。合 理的である。
 ところが私が札幌で芋煮会をやるとなると、ほかのメンバーはそうした習慣がないために、里芋を用意し皮をむくのは私一人の仕事になってしまう。
 一人分ならたかが知れているが、何人分もとなると大変だ。包丁を持つ手が痛くなるうえに、里芋はへたに扱うとかゆくなる。まったく痛しかゆし、なのだ。
 もっとも山形でもこのごろは材料のセットを売っていて何もしなくていいら しいのだが。
     1994/10/12

33   和解のかけ橋
 「醜い韓国人」という本が出たかと思えば「醜い日本人」という本が出る。 日本人と韓国人との間にある感情の溝は深いようだ。
 戦中、戦後の悲惨な雰囲気を知らず、侵略戦争という言葉も、頭の中では理解できても実感がいま一つの私にとって、その溝は途方もないものだった。
 空知民衆史講座という団体(事務局 深川市多度志町の一乗寺)から出版されたばかりの「和解のかけ橋」という本を送ってもらった。そこには溝を埋めるべく果敢に行動した人々の記録があった。
 発端は朱鞠内のお寺で見つかった七十余の位牌だった。さらに役場などの記録を調べ、多数の人々が死んでいることがわかった。
 朱鞠内湖のダムや鉄道の建設現場で働いていた人々にまちがいなかった。そして笹やぶに覆われた共同墓地での遺骨掘りおこしが始まったのである。
 せめて遺骨を韓国の遺族に返したい、 という思いからだった。
 しかし溝は深かった。父や兄、叔父を奪った日本そして日本人に簡単には心を開いてくれなかったのである。でも少しずつ変化が…。
 現在国レベルでの戦後処理が進められている。しかし本当の和解は個々の行動から生まれる。そんなことをこの本は訴えていた。
     1994/11/16

34  パワフル忘年会
 フリー業界は不景気である。
 ある雑誌の忘年会に出たらほとんど盛り上がら なかった。バブルがはじけ、カメラマンやライターの仕事量がガタ落ちで今一つ愉快になれないのだ。
 札幌市内の大型船の形をした温泉にはプールやトレーニング施設があって、 十一月からそこのスイミングスクールに通い始めた。この二十年ほど運動らしい運動をしていないので体力を維持しようと始めたのである。
 その会員の忘年会が あった。出席した百人ほどのうち男は二十人程度。あとは熟年を中心とした女たちである。会は最初から盛り上がった。
 スクールの若きコーチたちがサービス精神旺盛にアトラクションを繰り広げる。それに応えてガンガン騒ぐ。
 同じ施設内のスナックで二次会となったが、それがさらにすさまじい。みな 昔ディスコに通った世代である。飲み放題の制限二時間は踊りっぱなしだった。
 何しろ水泳で鍛えているから体力は並の若者以上だ。チークダンスも濃厚そのも ので、私はただただ目を点にして水割りを口にしていた。
 目と鼻の先でお尻を振 って踊り出した人がいたので、ひとこと断って触ってしまったが…。
 こんな大胆でパワフルでみだらで危険な忘年会があっていいのだろうか。 あっていいのである。来年も出るぞ。
     1994/12/27

34「露助」考(書いてはみたが日の目を見なかった原稿)
 かつてロシアがソ連だったころ、ソ連領事館などに真っ黒に塗りつぶした車で乗りつけ、「露助は北方領土を帰せ〜」などスピーカーで怒鳴るやつらがいた 。そんなこともあって、露助という言葉は蔑称なのだ、と頭から思っていた。
 彼ら以外にこの言葉を使うのが漁師たちだった。その口調にもやはり侮蔑の意味が込められていると感じていたが、気になることもあった。
 ロシア人の悪口を言っている漁師は当然にしても、逆に悪いのは日本人でロシア人の方が正しいと言っている漁師でさえ同じだったからである。
 そこであるとき釧路の有名な漁労長さんに尋ねてみた。露助という蔑称をど うして使うのかと。
 彼は、バカにした意味はまったくない、と明確に否定した。 そしてロシア人と和気あいあいと談笑している場でも「露助」を使っているというのである。
 どうもロシア人に好感を持っている漁師の「露助」には暖かみがあ って、逆の漁師が使うと侮蔑の意味があるようだ。
 文字にも罪はない。「助」は日本人の名前にもたくさん使われ、魚の鱒の助とはキングサーモンのことである。
 私は以前アイヌという言葉が蔑称だと思っていたが、今はちがう。露助も同じである。
 そしてジャップというがもともと蔑称 だったのかも疑問なのだ。
       1994/12