花時計       1993年分

13   冬の道路標識
 十二月に石北峠を車で通ったら対向車線で大型バスが立ち往生していた。
 団体旅行の添乗員らしいスーツ姿の男が車を誘導している。雪が肩に降りかかって なんとも寒そうだった。
 現場は急カーブの上に勾配がきつく、減速したバスが坂を上り切れなかったようだ。
 こっちも危なくて仕方がない。カーブで見通しが効かないのに一車線がふさがっているから逃げ場がない。
 ソロリソロリと下りていっても、向こうから上ってくる車は勢いをつけないとバスをスムーズに追い越せないだろう。
 ぶつかっても仕方ないが被害は最小限で済みますように、と祈っての走行だった。
 暗くなってからの帰り道、まったく同じところで今度は大型トラックが立ち往生していた。
 タイヤチェーンをつかんで後輪のそばに立ちつくす運転手さんの姿は気の毒だが、こっちはそれどころではない。ぶつかっても被害は最小限で済みますように、である。
 そのあと思ったのは、道路にカーブの標識は多くても勾配を示す標識がほと んどないことである。
 スタッドレス時代の運転ではカーブの情報以上に勾配の情 報が役立ってくれるのではないだろうか。
 ただしあまり重要でない標識や看板は極力始末しての話だが…。 
     1993/1

14   運転手さんの言葉
 雪まつりの時期になると決まって思い出し笑いすることがある。
 四歳になるひとり娘をカミさんが生んだのは三十九歳のときだった。
 超・高年齢出産である。隣のベッドにもたまたま高年齢がいて、カミさんに歳をたずね 「負けた」とつぶやいたそうだ。三十六歳だったとか。
 じつはカミさんの同級生にも同じころ子どもを生んだ人がいて、雪まつりを 機会に実家のある札幌に帰って来た。
 そしてまつりの会場から子どもを抱いてタ クシーに乗り込んだ。
 きっと善良で親切な運転手さんだったのだろう。いたわり の言葉を下りるときにかけてくれた。
 「おばあちゃん、大変ですね」
 それ以来立ち直れない、と同級会の席で落ち込んでいたのだという。
 悪いとは思いつつ、笑いがこらえ切れない。それでもこれから化粧などで気をつけることを考えると、生まれ故郷での間違いは役に立ったのかもしれない。
 カミさんは、といえば「彼女は高校生のころから地味な顔だったからね」と 、まるで自分とは関係ない、といった様子。私はそのこともおもしろくて仕方がないのである。
     1993/2

15  七日間の旅
 JR北海道で出している車内誌での連載が終わったのを機会に、一年で回れなかった線路を走ってみようと旅に出た。
 使ったのは道内の特急もJRバスも七 日間乗り放題というキップ。値段は二万二千五百円で、有効に使えばべらぼうに安い。
 時刻表と格闘しながら夜中までかかって予定を組んだ。この作業はなかなか おもしろく、やり始めると切りがない。
 七日間で道内の全線を回るのは難しいようだったが、何とか空白の線路を埋めることができた。
 さあ出発。函館山からの夜景を久しぶりに眺めて感動。朝一番の襟裳岬まわ りのバスでは、寝込んでしまって運転手さんに起こしてもらう始末である。
 納沙 布岬では冷たい強風に耐えきれずバスの中に避難。流氷を割って進む網走の観光 船の迫力は想像以上だった。
 人々もみんな親切だった。様似駅では車内に忘れたマフラーを手に持って運 転士さんが追いかけてきてくれた。
 留萌駅ではバスの乗り継ぎで分からなかった ことを親身になって調べてくれた。
 砂川駅の駅員さんが「あちこち旅行できていいね。私ら旅行なんて結婚式のときくらいだものね」と言うのを聞いて、何だか 申しわけない気分になった。
     1993/3/15

16   アンケートの旅
 JR北海道と北海道ちほく高原鉄道(ふるさと銀河線)の全有人駅にアンケ ートを郵送した。
 見どころや名物などの情報を駅員さんから直接得るためである 。これまで私が書いてきた旅のレポートと今度のアンケート結果を使って近いう ちに単行本が発行されることになっている。
 二百九通出して、今のところ五十五駅から返事が来ており、回収率二六%。 この率が高いか低いかは判断に迷うところだが、JRは人事移動もあって多忙な 時期だったから、こんな数字になったのかも知れない。
 回答内容も様々である。十の設問にすべてに「なし」とだけ答えてきた駅があった。
 本当に見どころその他がないのか。それとも赴任したばかりでその土地 のことを知らないのか。単に面倒くさかっただけか…。
 大部分は誠意ある回答で、用紙のすき間がないほどびっしり書いてくれた駅員さんも数人いた。
 自分たちの地域を知ってもらおう、来てもらおうという意欲が伝わってくる。あっちの駅こっちの駅と、読んでいるうちに全道を旅している気分になってきた。
 これから編集作業に入る。回答を寄せてくれた人々の誠意にどんな形で応えようか。
     1993/4

17   クジラ論議
 捕鯨が論議を呼ぶ中で、道内でもクジラについての対照的な二つの催しがあ った。
 三月に網走で行なわれた「オホーツクの捕鯨文化を守るシンポジウム」は 、捕鯨国と反捕鯨国には深い溝があって、結局は海洋に食を依存する民族と牧畜民族のちがいである、といった文化論まで進み、質の高いものだった。
 参加者からは「民族の食文化と言うが、たとえばアイヌ民族とサケの問題など国内でも民族の伝統文化を抑圧してきたのではないか」という発言もあって、 会場をうならせた。
 五月に室蘭で行なわれた「世界の鯨・イルカ講演会」は室蘭で芽生えたクジラウオッチングに関連したもので、世界でクジラ類の保護活動をしてる団体の長 の講演が中心。
 「クジラを殺すのはとんでもない、ウオッチングでクジラのとり こになるはずだ」と力説した。
 世界にはある種の動物を食べる人も食べない人もいて、互いの生き方に干渉せずに共存している。
 しかしクジラ問題はそう簡単ではない。舞台が海だからである。海の問題は即、国際問題で、国の主権が及びにくい。
 そして海のことにはみんなが口を出したがる。都会の人が地方の『原野』を「ああせー、こうせー」 言うようにである。
     1993/5/18

18   ひげづら
 サラリーマンをやめた翌日からひげ剃りもやめた。これで毎朝の嫌な数分間から開放され、ずいぶん自由になった気がしたものだった。
 ところがそのうちに妙な気分になってきた。ひげづらでメガネをかけた他人の顔が自分とそっくりな のである。
 ひげで覆われると顔の形や色つやなどがわからない。それにメガネとくれば 、まるでお面をつけたようなもの。
 今の日本のようにひげづらがほんの少数なら いいだろう。でもみんなでひげを伸ばしたら大変である。近くでは区別できても 遠目には誰だかわかるまい。
 顔を剃るという奇妙な習慣は人間の数が増えてどんどんマチに集結し、ひげづらでは個々の区別が難しくなったために始まったのではないだろうか。
 それで私はひげを極力短くしている。剃るのもいやだし、他人と顔が同じでも困るから 、折衷策というわけである。
 先日ある酒席でひげの話になったら、歳が一回りほど上の写真家のYさんも 漫画家のSさんもひげを伸ばしていたという。
 Yさんがひげをやめたのは、ゴマ塩になってかっこ悪くなったからだそうだ。
 じつは私も白いものが何本か出てきて、それを必死に切り取っている最中。剃る日が近いのかもしれない。
     1993 /6

19   ギリヤークさんの話題
 大道芸人ギリヤーク尼ヶ崎さんの北海道公演ツアーがこの日曜日の札幌丸井デパート前公演で終了した。
 今年も大勢の人々が詰めかけ、疲れを吹き飛ばす芸 ができたという。
 私はギリヤークさんのファンの一人に過ぎないのだが、誰にでも気さくな人柄で公演の打ち上げなどにいつも参加させてもらっている。今年も何度か食事をともにした。
 やけに食べ物の話題が多かった。それもごちそうではなく日常的な食べ物の話である。
 大きいトマトはつい残してしまうのでミニトマトは便利だとか、漬物を漬けるのに味の素を一袋全部入れて大失敗したとか、少量のごはんがどうしてもうまく炊けないとか…。
 そうだった。一昨年最愛の母を亡くして、一人暮らし だったのだ。
 男でも女でもいいから弟子になる人がいないかな、とも言う。同じ芸ではなくとも真に大道だけで生きていくことを教えたいそうだ。
 彼の大道芸が完成の域に達しつつあることは間違いない。しかし一人の寂しさからそんな言葉が出てきたようにも私には感じられた。
 最後にきっぱり「来月はモスクワの赤の広場で頑張ってくる」と宣言するころにはいつもの凛々しいギリヤークさんに戻っていた。
     1993/7/22

20   奥尻島
 奥尻島に向かうフェリーに笑い顔はなかった。みんな目の焦点が定まらないような表情をしていた。
 江差から弁当を持って島に通い、衣類などの救援物資の仕分けをしている人々も乗っていた。
 奥尻島への物資は江差町でも仕分け作業をしているそうだ。初 老のかたが淡々と話してくれた。
 江差の友人から五〇CCのバイクを借りてきて島を走った。
 テレビなどで幾度となく見ていることもあって、津波と火災で街が消滅した青苗地区へ行っても 、正直なところ驚きはなかった。
 青苗中学の先生に大学の後輩がいると聞いていたので訪ねてみた。受け持ちの生徒の二人が亡くなったという。
 教室に私の著書を備えていて、亡くなった一 人の生徒が熱心に読んでいましたよ、と言うのを聞いて、言葉がなかった。
 突然涙がこみ上げてきて、どうしようもない感覚に襲われた。
 我が家に仏壇はない。お盆にもこれといったことはしなかった。しかし今年 はろうそくを立て線香に火をつけた。
 三度の食事を供えて手を合わせた。中学生 で死ななくてはならない人の無念さをかみしめた。
 この原稿をワープロに打ち込 んでいても、涙はとめどもなく流れてくる。
     1993/8/24

21   牧場体験
 十日ほど前、摩周湖の近くの牧場で一日農業体験をしてきた。
 牛舎の掃除から乳搾りまで、農家の人と一緒に働く。労働そのものなのだが、時給をもらうわ けではなく、逆に三千六百円をこっちが支払う。手伝って金を払うのだから、これまでの常識からすればまったく妙な話である。
 この体験は摩周湖ユースホステルが企画している。もともとタダだったが、 去年の末から有料にした。
 農家に負担がかかり、タダではこの先続けていけない 、という判断からだったという。しかし有料化しても希望者は減っていない。
 その日も兵庫県からナナハンでやってきた姉妹と一緒だった。前日も東京の女性二人が体験していた。
 最後に飲む搾りたての牛乳ののど越しが最高。ただの観光ではあり得ない充実感が味わえる。農家の人との交流も楽しい。
 一日だけでなく七泊して酪農を本格的に知ってもらう企画も十月末に予定されている。新しく酪農をやりたい人にも具体的な相談に乗るそうだ。
 こんな旅の形がこれから増えていくにちがいない。問題は旅人の感動的な体験をしっかり演出できる人材がいるかどうかだと思った。
     1993/9/27

22   反化石燃料の世代
 次は反化石燃料の運動かな?
「森が消えれば海も死ぬ」(松永勝彦著 講談社ブルーバックス)を読んでい てそんな予感がした。
 戦後の日本は世代ごとに反資本主義、反戦争、反原子力と大きな運動のうね りをつくり、それぞれ役割を果たしてきたと思う。
 資本主義は累進課税や福祉に よって修正され、自衛隊の巨大化には歯止めがかけられた。核に対しては常に鋭 い目が注がれている。
 私なんかは反戦と反原子力の中間あたりの世代である。そ して次が反化石燃料だと思ったのだ。
 書名のようにこの本のメインテーマは森林と海との関係である。
 海のプラン クトンや海藻の生育と陸の森林との関係について化学の目から説明しており、画 期的で説得力が合った。しかし著述はそれにとどまらない。
 読んで認識できたのは、大気中の二酸化炭素の減少に自然林や農業がそれほど役立たないということである。
 それに石油や石炭などを燃やすのを少し減らす のは、問題を少し先送りするくらいの意味でしかない。ツケはたまる一方なのだ 。
 今のところ地球温暖化の抜本策がない。新しい世代が新しい形で運動を展開 し、解決の糸口を見いだしてくれる、と思うしかない。
     1993/10/29

23   フェリーあれこれ
 小樽ー新潟を結ぶフェリーに乗って故郷の山形に行って来た。
 前回は1人だ ったが、今度はカミさんと五歳の娘を連れている。設備のいいこの船なら娘も喜 ぶと思っていたが、案の定、大はしゃぎ。また乗りたいという。
 なにせ、晩秋ということで乗客が少ない。千人近い定員のところに百人くらいしか乗っていない。
 風呂はきれいで銭湯並みの広さ。用事が遊ぶ部屋まである 。食事は好きなものを自由にとって食べるカフェテリア方式で、質や値段の面でも不満はない。いい船である。
 若者だけでなく年配の乗客も多かった。話をした札幌の人は東京へ行くときによく乗るという。
 新潟からは高速バスを使う。あらゆる交通手段のうちで札幌 、東京間を一番安く行き来できるのがこのルート。「時間は十分あるから…」と 言っていた。
 なるほどこの船の快適さならば、十九時間の旅もつらくない。
 帰りは青森ー函館間のフェリーを使った。この落差は何なのだ。船が古いのはしょうがないが、内装くらい直してほしい。そのくせ乗用車の運賃が一万六千 二百円もする。
 片や小樽ー新潟間は一万七千六百十円、差は立ったの四百十円。 どうにも割り切れない。
 さすがに娘もまた乗りたいとは言わなかった。
     1993 /12/2