花時計   1992年(平成4年)分

1    フリー稼業
 六年前、水産業界紙をやめてフリーになったとき、名刺に刷り込む肩書きを どうするかずいぶん考えたものだった。
 フリーライターでは軽すぎる気がする。 著述業ではじじ臭い。ノンフィクション作家というのは本を二、三冊書いた者を いう、と著名なノンフィクション作家が雑誌に書いていたのでおそれ多い。
 とりあえずルポライターにしてみよう。
 英文も添えようとしてまたまた難航。ルポライターとはフランス語のルポル タージュと英語のライターを合成した日本語と知って、はてどうするか。
 辞書を 総動員して調べてみるとルポルタージュといったて、結局はレポートではないか 。そこでルポライターの英訳はレポーターとした。
 自己紹介するときはもっぱらフリーライターのカドワキと言う。どこにも所 属しないことをまず知ってもらいたいからである。
 「フリーターのカドワキさんですね」
 電話に出た若い女の人が、何のためらいもなく応答した。これには正直かな り傷つけられた。しかし言い返す気にはなれない。
 フリーライターもフリーター もほとんど変わらないと、この六年間骨身にしみて分かっている。ある人は私を潜在失業者と呼ぶ。
     1992/1/22


2    高等温食技術
 我が三歳の娘はまだ熱い食べ物が苦手である。特にラーメンなどめん類はか なりさめてからでなければ口にできない。
 めんを食べる娘のしぐさを見ていて、 なるほど、そうか、そうだったのか、と気がついた。
 娘はめんをただ単に口にいれてしまう。ところが自分といえば、やけどするほど熱いものを、ズルズルという音を発しながら、平気で口に入れているのであ る。
 このズルズルをよく観察すると、食べ物と一緒に空気を吸っている音であった。吸い込まれた空気が強い風になって食べ物を冷やしている。大量の気化熱を 奪っていく。
 思えばめん類だけでなく、みそ汁もズルズル、スープもズルズル、お茶もコ ーヒー、紅茶もズルズルである。熱いごはんはスースーやっている。焼きイモな んかはスーフースーフーと風を往復させる。
 ズルズル音をたてるのはマナーが悪いなどといわれるが、本当は自分の一番 おいしく感じる温度まで、無意識に冷やしていたのである。
 ズルズルは、私たち が知らず知らずに身につけた高等技術であって、けっして下品なものではない。 自信をもって世界に誇れる食の文化だと思うのだが、いかがなものか。
     1992 /2/20


3    ストレス発散
 三冊目の本を出そうと毎日ワープロに向かっている。ところが四百字詰めで百枚目を超えたあたりから能率が急に落ちてしまった。三百枚くらいなければ本にならないので、まだ三分の一である。
 構想が途中で変わり、何かと下調べに手間がかかる。時間はおかまいなしに過ぎていき、気持ちは焦るが、やっつけ仕事はできない。買っていただく人に最後まで読んでもらえる本をと、心がけている。
 ストレスがかなりたまっていたのだろうか。金銭面を割り引いてもサラリー マンに比べればはるかに健康的な生活をしていると自分では思うが、先日久しぶ りに朝の七時過ぎまで飲んでしまった。
 十数年通っている居酒屋には熱気があった。商社を辞めて札幌のテレビ局に 就職するという北大出身の男、美人の留学生、最後まで場を盛りあげた二組の夫婦連れはそれぞれに個性豊か。店主夫妻も負けていない。いつしか窓の外は昼間の明るさになっていた。
 タクシーを下りたら隣家のおじさんとばったり遭った。ふらふらする頭で、 つい、すみません、と口走った。家人たちはさめた目で黙々と朝食をとっていた 。
     1992/3/19


4    旧雪山通り
 北海道の道路は道外にくらべて幅が広い。札幌の道もゆとりがあって自動車には快適である。広いのは積雪のためとされている。
 両側に雪の山をつくるので 、冬は車道も歩道もその分狭くなる。夏のための広さではない。
 雪がすっかり消えて、車道は走りやすくなった。ところが歩道はそうはいかない。雪の代わりにおびただしい数の自転車が現れるからである。
 歩く人を巧み に避けながら走っていく。自転車乗りも歩行者も危なくて仕方がない。地下鉄や JRの駅近くはさながら自転車の吹きだまりである。雪より始末が悪い。
 そこでである。雪に代わって出現するのだから、雪山のあったところに収め てしまうことはできないだろうか。
 車道の端を自転車の専用ゾーンにするのであ る。たりなかったら歩道の一部も使えばいい。
 走りやすいのでかなり遠い通勤や通学にも使えるようになる。化石エネルギ ーや原子力に頼らないクリーンな乗り物である。健康のためにもよい。いいこと ずくめである。
 札幌市あたりが率先してやってくれればありがたい。自転車の通勤・通学が増えれば市営交通がますます利用されず、赤字が減らない、なんて言わないで。
      1992/4/17


5   夜行快速にて
 二三時三〇分函館発、快速ミッドナイト号。カーペットの敷かれた床で寝て いれば翌朝札幌に着いている。毛布は寝台車と同じ清潔なもの。これで普通運賃 に三〇〇円を追加するだけだから安い。
 利用客は若者だけかと思っていたら中年 の夫婦連れなどが多く、生活に密着した列車という印象である。
 飲み物の自動販売機を備えた小さなサロンがついていて、旅を楽しみたい人々のたまり場になっていた。
 周遊券で来たという酔っぱらいのおじさん。国家試 験の結果待ちという歯学生。最近仕事を辞めて札幌の友達のところに遊びに行く という二〇歳前の女性。その娘が気になるJR職員の青年。それにタマゴではなく本物の歯医者さんも乗り込んでいた。
 函館で開業している村井茂さんで、以前講師を務めた大学に行く途中だとい う。お近づきのしるしにと出版したばかりの「美しい歯ならびのために」という 著書までいただいた。
 後日読んで、なるほど歯の矯正とはこういうものか、情熱的なことをやっている歯科医はいるんだな、と認識を新たにした。
 寝たのは二時間程度で後の仕事に支障はでたが、久々に味わった旅の醍醐味 であった。費用はしめて五、一四〇円と自分の酒代也。
     1992/5/19


6   安全を求める人々
 旭川で無・低農薬野菜や有害添加物を使わない食品の宅配を始めた人がいて 取材のため配達の車に乗せてもらったことがあった。
 「うちのお客さん、警察とか自衛隊の奥さん多いんですよね」
 何気なく出た言葉にハッとした。警察官や自衛隊員の家族が農薬や添加物を 使わない食品を積極的に求めることがこれまで難しかったのではないか、と思っ たからだった。
 例えばそうした食品を扱う生協などの団体にしても、職員にはかつて政治運 動に携わったり現在携わっている人が多いようだ。
 団体そのものが政治的な運動 をしてようにも見える。悪いこととは思わないが、そういう組織に警察官や自衛 隊員の家族が入っても肩身の狭い思いをすることだろう。
 けれどもアレルギーやアトピーなどが子どもたちに蔓延し食品には無関心で いられない。我が娘も乳児のころアトピーと診断され、普通の粉ミルクではないえらく高価な飲み物を買っていた。そんな時代である。
 宅配車は野菜を仕入れている農家に寄った。毎週のように玄関先に来ては私をうんざりさせているある宗教の信者であった。
 食い物に保守も革新も体制も反体制も、宗派もない。
     1992/6/16


7   ゴミ減量作戦
 家庭ゴミの処理を有料化しようという話が札幌でも湧き上がっている。
 コス トに見合った料金を負担するのは当たり前。ただし今の使い捨て流通が改まらない限り、有料化によって吹き出す問題のほうが大きいのではないか。
 もし今すぐ有料化されたとする。駅や公園のゴミ箱は家庭からのゴミが持ち込まれるため閉鎖される。
 街には空き缶がゴロゴロし、ビニール袋が舞う。道に は駐車違反の車の列。交通巡視員までがゴミの不法投棄者摘発に駆り出され、車に手が回らない。
 ススキノでは「ゴミの街札幌」が大ヒット。隣の庭に毎日ゴミ を捨てていた男が包丁で刺される…。
 そこで今できることからとコンポストを購入することにした。
 まず札幌市の二千円補助に応募のはがきを提出。割引き券でも送ってくるのかと思ったら書類を市に再提出しなければならない。
 書き方はこれでいいのだろうかと心配しつつ 郵送するとなんとか通り、署名捺印、捨て印も忘れずに、という書類を今度は販売店に提出。
 ところが捨て印の位置がちがうと店から指摘され家にUターン。役 所の難解な仕組みは知りたくもないが、せめて書き方の見本を付けてくれれば、 とのろいつつゴミ減量作戦は始まったのだった。
     1992/7/14


8  サケの季節
 今年も秋サケの季節がやってきた。私にとっては恒例の料理教室が開催される時期である。
 漁業団体の北海道定置漁業協会が毎年九月に開いており、私の役 目は必要な物を買ってきたり、サケを運んだり、教室の後かたづけをしたりという、いわば使い走り。それを楽しくやらせてもらっている。
 もともとは若い世代にサケを丸ごとさばいてもらおうという企画で、募集したのは男女のペア。そのうち親子でもおじいさんと孫でもいいや、となってきた 。
 参加したペアにはメスのサケが一本配られ、包丁さばきからイクラのばらし方 まで基本を教えてくれる。
 講師は郷土料理「雷電」の御主人で、当日は独立したお弟子さんなどが数人応援にくるので、指導は懇切ていねいである。
 こんなことで秋サケには縁が深い。チャンチャン焼きのタレをメーカーに試作してもらったこともある。野菜のエキスをタレに入れてしまい、それを使えば 手軽に夕食用のチャンチャン焼きがつくれるという寸法だった。
 残念ながら発売には至っていないが、企画はおもしろいと今も思っている。
 サケの季節が近づくと心がおどりだす。まるで水面から跳ね出るサケのよう に。
     1992/8


9   大大ちゃんの決意
 カツメシという食べ物がある。削り節をふりかけ醤油を垂らしたごはんではない。トンカツの肉を二枚にして間にごはんが入っているボリューム満点の料理である。メシだけでなくカツ納豆もある。トンカツと納豆が絶妙な味をつくり出 している。
 これらは札幌の北区にある居酒屋大ちゃんのオリジナル料理。ほかの食べ物 も安くておいしく、場所がら北大生なら一度は必ず行ったことがあろうという店 である。
 マスターが私と同い年なので親近感があり、家がそれほど近くもないのに時々寄らせてもらっている。
 店名は息子さんの名前である。マスターのフルネームは知らない。聞いたことはあるはずだが覚えていない。大ちゃんの父親なので仮に大大ちゃんとしてお く。
 この店が先月新築オープンした。鉄筋コンクリート三階建てになった。大大 ちゃんは「カツメシで建ったようなもの」という。
 オープンと同時に大大ちゃんは酒をやめた。検査でひっかかったそうだ。実は大大ちゃんの師匠に当たる人は、私も学生のころ随分お世話になったが、肝臓 をこわし四十代で死んでいる。
 急に飲まなくなった大大ちゃんに四十代が見えてきた私は何もいえないのである。
     1992/9/8


10  ノートの値段
 釧網本線を旅していて取材ノートをなくしてしまった。旅行かばんに入っているとばかり思っていたのに、宿で開けてみたら見当たらない。
 落としたか置き 忘れたらしく、駅員さんたちが親切にさがしてくれたものの、ついに戻ってこなかった。
 十年ほど前、旅先でノートをかばんごと盗まれたことがあった。付近の人が追いかけてくれたが、犯人はかばんを手に走って逃げてしまった。警察署で被害届けを出した。
 「金目のものは?」
 「入っていたのは着替えくらいのもので」
 「一番高価なものは何ですか?」
 「電気かみそりでしょうか」
 「いくらくらいのものです?」
 「五千円くらいです」
 「何年ぐらい使ってます?」
 「二年ぐらいです」
 「それじゃ、三千円にしておきますか」
 どうやら被害は時価で届けるらしい。
 「ほかには?」
 「あのー、取材ノートが入っていたんです」
 時間と旅費をかけて書き上げた大切なノートである。
 「いくらくらいのノートですか」
 「二百円くらいです」
 「どれくらい使いました?」
 「八割がた書いたノートなんです」
 「それじゃ四十円ぐらいですね」
 ショックでしばらく言葉が出なかった。
     1992/10/8


11   サンマの年齢
 庶民の魚サンマは今年も大漁で、様々な話題を提供してくれた。とれ過ぎて休漁したとか、四十センチ以上もある巨大サンマが現れたとか。
 昔からなじみ深い魚ではあるが、実は生態はあまり分かっていない。例えば三十センチくらいの大型サンマが何歳何ヵ月なのかといった基本的なことさえはっきりしない。
 昨年私は「北のさかな物語」という本を出し、そこではこう書いた。
 もとも と大型サンマまで成長するのに一年半かかるという説が一般的だったが、最近の 研究で一年という有力な説が出され、だれも否定できない、と。
 こうした表現は正確さに欠き、実際はもっと複雑らしいが、ともかく毎年漁の前に発表されるサンマ資源の予想でも一昨年から一年説をもとにしたものに変わっている。
 ところがである。この説がさらに否定され、大型サンマはやっぱり一年半だった、となりそうなのである。北大水産学部の大学院生、巣山哲さんの研究結果で、話を聞いた感触でも巣山さんの方がどうやら正しい。
 魚の研究というのはまだそんな段階だったのかとがっかりする人がいるかも しれない。
 でもこれが現実で、だから興味をもってじっくり研究している人々がいるのである。
     1992/11/7


12   北洋漁業の実像
 漁獲割当て量の何倍とっていたとか、操業水域の違反を重ねていたとか、北洋サケ・マス漁の暗部が次々に暴き出された。栄光の歴史が真っ黒に塗りつぶされようとしている。
 そんなおり、西区西野に先日オープンした「平野禎邦写真ギャラリー 喫茶 あ・うん」で故・平野さんの「北洋」という写真集を久しぶりに見た。一枚一枚 ページをめくりながら、やはりそうなんだ、と思った。
 サケ・マスの割当て量その他は国家が交渉して決めてきた。
 今の農業問題などでは何年も時間をかけて交渉している。ところが北洋には漁期というタイムリミットがある。どうしても日本側が受身にならざるを得なかった。
 でも魚をとる男たちに大きな罪の意識などあったろうか。単に彼らのできるギリギリの範囲で漁をしてきたに過ぎないのではないか。
 平野さんの写真に見えるのは国際的な犯罪人ではない。常識的でやさしそうな男たちである。
 そんな人々にほれて平野さんは根室に移り住み、漁船に乗って写真を撮り続けた。暗部など消え失せてしまうほど光り輝く魅力があったからだ ろう。
 「あ・うん」でコーヒーを飲みながら北洋漁業の実像はやはり栄光に満ちたものだった、と感じた。
     1992/12/7