新北海道漁業史・私の漁業史8

中型サケ・マス漁船の盛衰

根室市 Oさん(大正8年生まれ)


 Oさんは全鮭連の副会長をつとめるなど戦後サケ・マス漁業の中心を歩んできた。

申請だけで権利取得

 「私は3代目でコンブ漁業を営んでいましたが、昭和22年から6トンくらいのコンブ船でサケ・マス漁を始めました。エンジンはヤンマーの5馬力。そのあと30トンの中部船になったんです。権利は申請だけで簡単にもらえました。そのころは長くて1週間、短ければ3日で帰ったんです。漁場は遠くても1昼夜か1昼夜半のところでした」

 弟さんも船頭をしており2隻で操業していたが、昭和29年の道東災害で1隻が全損し弟さんが亡くなった。それからはまた1隻だけの経営になったものの、船はどんどん大型化していった。

 「税金を取られるくらいならと、5年か6年で新造して、そのたびに船が大きくなっていった。当時は大きくすればするほど水揚げが伴いました。37年にA海区とB海区に規制されたんですが、そんなことには関係なく択捉島の5マイル沖くらいまで追って行ったものです。そのころはソ連の取り締まりもゆるかった。船が80トン、90トンと大きくなってからベニも獲るようになりました」

報告は6割程度

 割当量もあったはずだが、現実には大きくオーバーしていた。
 「獲れるだけ獲ったということです。40トン型のころは7航海以上やったでしょう。その後2航海分しか割り当てがなくなっても、3航海はやったものです。漁場から帰ってきて港に全部揚げずに他に売って、割り当てに達していないからとまた航海に出る。日ソ交渉で8万トンで決まっても13万トンは獲っていたと思います。報告は6割程度しかしていませんでした」

 しかしそのつけが割当量の削減とそれによる減船、取り締まりの強化などとなって現れてくる。
 「昭和47年の減船は形式的なものでした。トン数の売買も公然と行われていて、50年ごろは中部サケ・マスの権利が5億くらいでいつでも売れたものです。52年と53年に連続して減船しましたが、そのときも余力がある人がやめていった。まだまだ権利が4億くらいで売れて、船体も合わせれば5億の金が入りました。経営内容の悪い人ほどやめられなかった」

最後はみじめなもの

 それでもサケ・マス漁業の華やかさは続いていた。
 「サケ・マスだけで歯舞漁協の水揚げの3分の1以上を占めていました。私が払う税金だけで歯舞漁協の全コンブ漁家の税金を上回った年もあったくらいです。根室では中部船の黄金時代が長く続きました。でも最後はみじめなものでした」

 ロシア、アメリカだけでなく水産庁の取り締まりが強化され、市場の監視も厳しくなり、割り当て量を100%消化するのでさえ難しくなった。加えてロシアに払う入漁料は1隻6,000万円にも上る。平成3年の減船のときにOさんも中型船から手を引いている。

 「われわれ業界が政治力も使って水産庁に圧力をかけ、船がどんどん大きくなった。それで水揚げがどんどん増え、資源が追いつかなくなった。それが一番悪かったと思います。水産庁もアキアジには厳しいですが、サケ・マスにはゆるかったですから」