新北海道漁業史・私の漁業史7

報徳精神でつかんだ成功

佐呂間町 Sさん(昭和13年生まれ)


 現在、佐呂間漁協組合長をつとめるSさんは国後島生まれ。小学1年生のときに終戦を迎えて、家族で根室に逃げてきた。佐呂間町に来たのは昭和21年で、知り合いを頼っての入植だった。

 「樺太から来た人たちが多かったですね。元々佐呂間にいた人は少なかった。引揚者が中心になって組合をつくったんです。国や道からの補助はなくて、家を建てるのも船を造るのもすべて自分たちでやりました。住宅などで役場が多少援助してくれたと思いますが」

 魚田開発など国の事業に乗ったわけではなく、すべて自前の開発だった。
 「もう少し生活が楽だったらなと思ったことがあります。長男でしょ。学校に行きたいけれど行かせてもらえない。何で俺が犠牲にならなければならないんだという気持ちはありました。働きましたよ」

サロマ湖を変えた青年たち

 サロマ湖の漁業を現在のような豊かな姿に変えたのはホタテ養殖の成功だ。それまでオホーツク海に放流していた稚貝は当年貝で小さく、魚の食害などで生残率が悪かった。そこで越冬させて稚貝を大きく育てるための試験が青年たちによって何度も行われた。努力が実り38年から39年にかけて行った垂下式での越冬試験が見事成功、放流だけでなく湖内の養殖へと発展していく。

 Sさんの前の組合長の住吉不二夫さんなどが当時のリーダーで、Sさんはその後に続いた世代だ。
 「冬を越して春にかごを揚げてみたらホタテの稚貝が生きていた。画期的だったと思います。今のような資材がなくて、自分たちで木の枠をつくって金網を張って。当時の普及員も私たちと一緒に夜も寝ないで真剣に取り組んでくれました」

月給制へ

 ホタテ養殖が軌道に乗り、生活も安定してきた。そこで始まったのが組合員の月給制。あらかじめ年間の生活費を決め、組合が月給として渡す。足りない分は組合が貸すが、残った金は貯金に回す。報徳精神にのっとった施策だ。

 「人間は1人では生きていけないんだ、みんなで助け合いながら生きなければならない、という教育は若いときから受けてきました。毎年、組合の事業計画書にも二宮尊徳の道歌がいくつも書いてある。私も札幌で缶詰になって勉強したことはありますが、ふだん報徳を意識することはないんです。相互扶助で困ったときにはみんなで助け合って、その中からこつこつ貯金していくというのが報徳だと思っています。取ったものを全部使っていたら今の佐呂間組合はなかったでしょうね」

変わる浜の意識

 組合員で60歳を過ぎた人はほとんど次の世代にバトンタッチするか、脱退している。組合員は若返っているが、若い人たちはただ貯金するだけでは飽き足らなくなっているという。

 「苦しいときにこつこつ貯めた貯金ですからみんな簡単には解約しない。でも今は組合の貯金が伸びていません。若い人の考えはちがうんです。遊びでバンバン使おうというのではありません。金を置いておくよりもっと有効に使った方がいい、将来この貯金はこう使うという目標を設定しなさいというのが、若い人の考え方です」

 報徳精神とは金を生かすことでもある。