新北海道漁業史・私の漁業史4

漁業者が築いた高度成長

利尻富士町 Yさん(大正13年生まれ)


兄の借金を返済

 一番生活が大変だったのはニシンが獲れなくなった昭和33年ごろだった。
 「ニシンは1ヶ月の漁で1年食って飲んで余るだけの水揚げがある。俺は家族でできる刺網をやっていたけれども、兄貴は建網をやっていた。若い衆を35人くらい頼んで。漁期前に青森に募集に行けば、そこで飲めや食えやのどんちゃん騒ぎ。ニシンが来たらそれで払えばいいやという気なものだから、酒飲んでばくち打って。それがピッタリ来なくなった。俺が兄貴の借金を全部払ったんだ。そのころが一番ゆるくなかった」

 コンブ、ウニ、アワビ漁などの漁業のかたわら、Yさんは周年大工仕事をしていた。午前中に漁を終えるとバイクに道具を積んで現場に出かける。そんな生活を一変させる出稼ぎ生活に入ったのは42歳のときだった。

 「学校を卒業したせがれが出稼ぎに出てみないかと誘われた。せがれはあっちこっち歩きたいものだから行くというので、俺もついていったわけだ。翌年、その会社が募集に来たけれども、せがれは土木はもういやだと言うし、俺も行く気はない。それでもせっかく募集に来てかわいそうだからと、知り合いに声をかけたら14人集まった。でもYさんが行かないんだったみんな行かないというので、1ヶ月ぐらい行くことにしたんだ」

喜ばれた北海道の漁業者 

 それから20年、11月から4月までの半年間、Yさんは出稼ぎを続けた。そして神奈川県茅ヶ崎の建設会社にはなくてはならない人物になっていた。
 「まじめにやるから北海道の人は喜ばれて。特に漁師は夜も寝ないで働くくせがついているし、大工仕事のまねも鍛冶屋のまねもしている。俺らは徹夜かけてやるから3日のところなら2日で終わらすわけだ。それでほかの仕事もできるから会社も儲かるし、自分たちの収入も良くなる。出稼ぎのいない時期は、ニコヨンを集めるから仕事がとろくて。会社では俺たちが行くのをまだかまだかと待っていたものです」

視察の町議にかみつく

 最盛期には漁業者の8〜9割が出稼ぎをしていたという。町会議員たちが出稼ぎの現場に視察と激励に来たときがあった。
 「平塚に来たとき『あんたたち大阪に行ったそうだけれども、現場はどうだった』と聞いたら『どこもみんな同じだ』と。それで徹底的に言ってやった。『おまえら町の金であっちこっち見物して歩いるようなもんだべ。手帳の端くれに、1日の単価がいくらで、早出残業で1ヶ月の収入はこれくらいになると書いてこないのか。馬鹿この』って。帰ってから議員さんが『あんなところに行くもんでねえ』って言って笑っていたそうだけれども」

 しかし現場で責任ある立場になるに従って、神経をすり減らす仕事もこなさなければならなくなった。
 「札幌の兄弟のところに遊びに行ったついでに、胃の検査をしたらポリープがあって結局手術をした。先生は『Yさん、あんたどこかで神経使う仕事したな』って。それで出稼ぎをやめることにしたんです」

 Yさんは現在コンブ養殖も手がけ、冬でもバイクに乗って忙しく働いている。
 利尻島に限らず北海道の漁業者には、日本の高度成長を自らの手で築き上げたという歴史の一面がある。