新北海道漁業史・私の漁業史3

コンブ漁家の営漁改善

様似町 Hさん(大正8年生まれ)


 Hさんは17歳からコンブ漁業に従事し、冬島漁協の代表監事を長く務めた。
 戦後で一番苦しかったのは昭和27年ごろにおそったコンブの大不漁だったという。豊漁が続いていたスケソウダラもそのころは獲れなくなっていた。

ギンナンソウで食いつなぐ

 「昭和20年の終戦の年に、それまで見たこともないような氷が来て磯そうじをした。そのあと5年くらい豊漁が続いたけれど、徐々に悪くなって大不漁。戦後まもなくは獲れるだけ獲れた冬期間のスケソウもなくなっていてね。このへんの漁業者は冬に山に入って造材の仕事をする人が7割くらいいたけれども、コンブが不漁で造材からも人があふれた」

 それを救ったのは今では若芽をお汁の実にする程度のギンナンソウだった。
 「ギンナンソウがコンブの半分くらいの水揚げがあったから、何とか持ちこたえることができました。壁材の糊などの原料として、化学製品が出回るまでは高く売れたからね」

 そんなこともあって漁協では定期預金運動を始める。Hさんは地区の実行組合で組合員を説得した。しかし長年の生活習慣はなかなか直せなかった。

ツケ生活からの脱却

 「昔からここのコンブ漁業者は函館や様似の商人を通してコンブを売っていて、道具、米、味噌、醤油、衣類もみんな商人からツケで買っていたんですよ。ただでもらうような感覚で品物をとっていた。ところがコンブの精算をすると金がなくなってしまう。なくなるどころか赤字の人もいる。昭和10年ごろから組合にコンブを集めて売るようにようになったけれども、借りて生活する習慣は戦後になっても直らない。当時は半分以上の組合員が組合から1年を通して金を借りながら生活していたんです。5、6月になればコンブ資金、コンブ漁が始まる直前は着業資金、10月になれば、雇いや出面に払う切り上げ資金、それに正月資金…」

 しかし定期預金の運動は少しずつ実を結び始める。
 「不漁の年でも1年を繰り越せるような定期を積み立てよう。『辛抱せい』『貯金しろ』と。3年ぐらい経ってぼつぼつ定期を持つようになって、だんだん組合でも特別な資金をあまり出さなくても良くなりました」

養殖にも挑戦

 コンブやほかの海藻を増殖しようと地区ごとに研究会を組織してさまざまな研究を始めたのもコンブの不漁がきっかけだった。
 「コンブ、フノリ、ギンナンソウの増殖だけでなく、コンブやノリでは養殖試験もやりました。ところが日高は海が荒い。大きな時化が来ると施設が壊れてしまいます。頑丈な施設にすればいいだろうと金をかけてやってみたら、時化でせっかく生えてきたコンブが施設から流れてしまった。とうとう養殖はだめでした」

 日高で初のダイナマイトを使った磯そうじも行い、改良を重ねて現在まで続いている。
 「昭和34年ごろでしたが、研究会でどうやったら磯そうじができるか考えて、どこからの補助も受けずに組合がやった。発破師を頼んだけれども、その後は独自に資格を取りました。あれは成果が上がりました」

 戦後、全道のコンブ漁家は生活の安定のため、生産面や経営面でさまざまな試み行った。様似町冬島はその代表例の1つだ。