新北海道漁業史・私の漁業史2

「地の果て」の魚田開発

斜里町 Tさん(大正5年生まれ)


 昭和22年に樺太から引き揚げ、翌年に斜里町ウトロにやってきた。
 同じ知床半島でも羅臼側と異なり、ウトロ側の浜は6漁家があるだけという文字通りの未開の地。そこに満州や樺太などからの引揚者が続々入植した。

流木燃やして塩づくり

 「一旗揚げようという人たちがウトロにやってきました。沿岸には流木がたくさんあって、まず塩づくりをした。ドラム缶で24時間続けて海水を焚くと塩が1俵くらいできる。塩1俵と米1俵がだいたい同じ値段でした。昭和23年の春にはニシンが来た。1年だけだったんですが、それで助けられました」

 昭和23年には対外的な交渉をするために、任意団体の知床開発引揚漁民組合を設立した。団体でなければロープや網などの配給が受けられない時代だった。24年には斜里漁業会から正式に独立したウトロ漁協が設立され、25年には引揚者対策の魚田開発基地に指定され、船や住宅が政府から与えられた。

 「資材代も労務賃も出してくれる。冬は海が凍って漁ができないから漁民住宅づくりです。自分の家を建てるのに手間賃をもらうような形だから、助かりました。運搬船も必要だから買ってやると。中古船を買って、新造船との差額を組合の資金にしたり」

 政府から手厚い支援を受けても斜里から40キロ以上離れた陸の孤島。もちろん電気はなく水力自家発電機を設置するなど、ゼロからのインフラ整備。いく度もの海難で30人以上の犠牲者を出したのもこのころだった。

 「組合員はまとまっていました。小遣い稼ぎのために獲った魚をあっちこっちに売っていたら組織は成り立っていかないですよ。道内6カ所の魚田開発で最終的に成功したのがウトロだけだったのは、地の果てという特別な地域だったからです」

マルハに負けるなと拡大路線

 Tさんは昭和31年から漁協の常務や専務を歴任。斜里を拠点にしていた赤木寅一組合長が対外的な顔となり、Tさんは地元で組合実務を担当してきた。
 秋サケやマスの水揚げに加え、イカの大漁でウトロは活況を見せる。漁協は拡大路線をとり、次々に事業を広げていった。北洋サケ・マス、冷蔵庫、製函工場、木工所、山林、そしてホテル、函館には珍味加工場…。

 「アンチ信連だったから、金は中金に預けて。マルハ大洋にも負けないぞと。ウトロは便利になったとはいえ、都会ほどではなく、金は組合に集まったので資金は潤沢でした」

 しかしバブルがはじけるようにイカの来遊が途絶え収入は激減、拡大路線が行き詰まる。
 「結局どこでけじめをつけるかです。ただ大きくなれば良いというものではない。事業が拡大すれば、それを管理する組織もきちっとしないと。そのあたりにまちがいがあった」

地道にサケ・マスを増殖

 Tさんは赤木さんの跡を継ぎ組合長をつとめた。最もうれしかったのは地道に取り組んでいた増殖事業が実り、サケが帰ってきたときだったという。そのころ国を挙げてのサケ・マス増殖事業が行われ、大河川のないウトロ地区では小河川の有効利用を図った。

 「増協ではウトロは採算が合わないと見て、うちの組合に親魚の捕獲から採卵まですべて委託したんです。損しても組合が負担しなければならないため、自主的な増殖積立金制度をつくった。組合員の生活と組合経営を支えてきたのはサケとマスだけです」