新北海道漁業史・私の漁業史16

資源増大を支えた加工業

釧路市 Aさん(昭和9年生まれ)


 宮城県の農家の出身。現在社長をつとめる水産加工の阿部商店は前社長と二人三脚で育ててきた会社だ。
 道北の士別の農家に働きに来ていたとき、前社長は隣の農家の人だった。彼が釧路に来て商売を始めたため、昭和33年にそれを頼ってやってきた。

ベコ買い

 「使う方も使われる方も裸。給料を払う金もなかった。知り合いの人に頼まれて錦町の市場から魚箱を持ち出そうとしたら警察に通報され、調書を取られたこともありました」
 当時の釧路の水産業は伸び盛り。中部鮭鱒のほか、母船式の独航船の一部も水揚げした。沖底船の水揚げもある。そんな華やかな時代にあって、Aさんたちがしていたのはいわゆるベコ買いだった。

 「鮭鱒はベコ買いです。現金を持って乗組員の賄いものや隠し持ってきサケを買ったり、独航船が母船に引き渡さずに持ち帰ったサケを買ったり」
 買ったサケ・マスは箱詰めしてすぐに札幌市場に送ると翌日には金になった。それなりにもうかったが、問題も大きかった。

 「裏街道を歩く商売だから、仕入れには闇ルートがあって、どうしてもヤクザがらみになる。そういう連中が『金を貸せ』と来る。こっちは魚が欲しいから金を貸す。でも連中は借りた金はもらったと思っている。そんな連中とのつきあいが5〜6年ありました」

裏街道から表街道へ

 そこで昭和38年に、それまで貸していた約500万円をすっぱりあきらめ、彼らと縁を切ることにした。丸裸になっての出直しだ。人の紹介で道漁連釧路支所と取引を始めたことが新たな道を切り開くこととなる。

 「加工して漁連さんに渡して運転資金を借りる。そんな方法で正規の仕事を始めたんです。そのまじめさを支所長が認めてくれて昭和40年のアキアジシーズンに漁連さんの建物を夜だけ使わせてもらうことができた。昼に買ったサケを夜に処理する。40日くらいでサケの製品を300トン製造した。親(魚体)は漁連さんに納め、卵は自由にしていいということでした。ところが終漁近くなってキロ100円値上がりしたんです。漁連さんに納めていたサケを売って3,000万円もうけさせてもらいました。それが阿部商店の基礎になった。今の阿部商店があるのも漁連のおかげといって過言ではありません」

加工の妙味

 その後、阿部商店では秋には釧路港に揚がるサンマやイカ、サバやイワシなどには目もくれずひたすら秋サケに専念した。秋サケは増殖でこれからどんどん増えるという読みがあったためだ。それに道東鮭鱒はブローカー的な商売だが、秋サケは加工の妙味があった。
 「扱いは難しいけれども見返りがある。シーズンの初めと終わりでは腹の歩留まりも変わってくるし、オス・メスの比率も変わってくる。それに加工の技術が利益に結びつく」

 その代わりに仕事はきつかった。
 「遅くなれば11時を過ぎることもありました。午前1時2時までやったこともあります。労働基準監督署が捕まえるなら捕まえろという意気込みで。同業者はみんな同じでした」

 秋サケは増殖によって水揚げを増やした。それでも値段が維持できてさらに増やしていけたのは、昼夜なく操業した水産加工業者の存在があったためでもあった。