新北海道漁業史・私の漁業史15

稚内機船漁業とともに

稚内市 Hさん(大正15年生まれ)


 高知県で生まれ、鹿児島水産専門学校を卒業、昭和25年に稚内の漁業会社に就職した。
 漁労に従事したあと、石崎金作社長が設立まもない宗谷機船底びき網漁協の組合長だったため漁協職員となり、昭和28年から専務。稚内市内の2機船漁協が合併したあとも専務をつとめ、44年間漁協の中枢で働いた。

父の言葉

 沿岸漁業との調整には特に力を入れた。
 「高知の親父に『北海道ではこれだけの水揚げがある』と手紙を書いたら『水揚げはいいが、沿岸の漁業はどうなんだ』と。というのは高知県は底引きと沿岸漁業の間で問題が多くトラブルの耐えない状態だったんです。それで底引きが円滑に操業するためには沿岸との調整をしっかりしなければいかんなと思いました。だから私は若いときは沿岸との共存共栄を願って漁業調整一本でした」

 稚内の沖底船は水揚げのプール制という先進的な制度をつくったことで有名だ。
 「昭和47年の合併以前にオオナゴが大漁でみんな満船で入ってきて陸上の処理が間に合わなくなった。順番を決めてやるか、トン数を決めてやるかというときに、プール制でやろうということになったんです」

プール制の長短

 本格的なプール制になったのはソ連が200海里を施行した52年からだった。
 「このまま全船が出ても、漁場が狭く、ソビエトに拿捕されたり、沿岸で操業して問題を起こしかねない。抜け駆けしないためにもとスケソを獲る船、オオナゴを獲る船、休漁する船と3分割して操業し、水揚げは全部プールするようにしました」

 しかしその後プール制の弱点も表面化した。
 「プール制は参加者が最善の努力をして維持することが大切で、もうかっているうちは良いんですが、赤字を分けるようになったらだめなんです。余計獲った船はバカくさい。だけだけに獲っている船は、もらえるのは同じだから網を壊すようなことはしないという消極的な操業となる。それで最後には全プール制は一部だけやることになりました」

 苦労したのは減船だった。昭和52年の第1次減船では瀬戸常蔵組合長が国、道の要請に基づいて指導力を発揮したが、61年の第2次減船時には瀬戸組合長が体調をこわしたため米倉弘副組合長とともにHさんが中心になって調整せざるを得なかった。
 「減船する人、あとに残る人、組合の体制、職員はどうするか。まず減船者が残す負債はメーカーや資材業者にお願いして、年内に支払う代わりに5割ぐらい圧縮してもらいました。資金は15億くらい借り入れ、それは組合が返していく…」

ロシアとの関係を構築

 日ソ、日ロ交流でも稚内は先んじていた。Hさんは200海里実施前の昭和51年に大日本水産会の漁業者交流で初めてソ連極東を訪れ、漁業事情を視察し、多くの知人、友人を得た。次いで52年には第1回日ソ専門家会議に唯一の民間人顧問として参加、操業日誌の扱い方など、日本とのあまりの違いに驚いたが、その後も相互理解の努力を続けた。

 ロシアとの関係がひと区切りつき、漁協の収支改善に少しでも役立ちたいという意味もあって平成9年に自らの身を引いた。
 その後も高知県出身の奥さんと稚内で暮らしている。土佐で生まれ、薩摩で学んだ男が選んだ終の棲家はやはり水産基地稚内だった。