新北海道漁業史・私の漁業史14

激変を重ねた島の漁業

奥尻町 Oさん(大正13年生まれ)


 奥尻島で漁業に従事する一方、奥尻漁協組合長、さらには合併後のひやま漁協組合長をつとめている。

宝の島

 「奥尻島は『宝の島』と言われた時期がありました。昭和30年から35年ころなんです。春にはホッケの巻き網で、獲れたホッケは青森から船が来て鮮魚で持っていきました。巻きボッケのあとはイカ釣りをする。お盆までにはその年に生活するだけの金が稼げました。イカ釣りは11月末か12月10日ごろまでやったんですが、お盆以降の分は翌年の生活費になる。イカはするめに自家加工して、翌年の初売りにかけたり、桜の咲くころには値段が上がるからそのときに売ったりする。それで『宝の島』と言われたんです」

 春先のワカメ採りも金になった時期があった。アワビは試験場の調査で発生量が多い割に餌が少ないため種アワビの供給地となった。多い年には100万粒を千葉、茨城、岩手など各地に出荷した。
 「冬は若干の磯回りはありましたが、1ヶ月はわらぐつ作りです。2月10ごろからはそのわらぐつを履いて山で1年分の薪切りをしました」

イカ釣り機で生活一変

 収入の大半を占めたイカは昭和50年ごろまで手釣りだった。加工はもっぱら奥さんたち。宝の島ではあるが、仕事はきつかった。
 「沖に行った男たちは栽割してのれんに掛ければ昼寝です。あとは女房の仕事になる。子どもをひもで柱につないで」

 こうした生活が自動イカ釣り機の登場によって一変した。それまで1隻に10数人が乗り込んで、各自が船主に獲れ高の2割5分や3割程度を納めて操業していた。それがイカ釣り機の導入によって1人で船を持ち操業できるようになった。
 「組合に申し込んで資金を借りてほとんどの漁師が漁船漁業をやり始めた。奥尻島だけでも400艘くらいになったと思います。ほとんどが5トン未満で、2トン半の船でも2台くらいイカ釣り機を付けてやっていました」

 しかしその後の経営は厳しかった。オイルショックによって燃油が高騰し、イカの不漁が続き、獲れ始めると価格が暴落した。借金は減るどころか、雪だるま式に増えていった。
 「高金利の利子がどんどん増えていく。とても返せる状態じゃなかった。それで私は当時の信連は泥棒だ、と言うんです」

悲劇と復興

 そこに襲ったのが南西沖地震と大津波だった。大谷さんも義母と義兄を目の前で亡くした。闇の中から「助けて」という義母の声が聞こえてきたが、何もできなかった。所有の磯舟は能登半島の七尾に流れ着いた。

 壊滅した漁業を再建させたのは全国から寄せられた義援金だった。激甚災害法に指定され、新造船には国と道とで3分の2が補助される。それにプラスして奥尻町は義援金から自己負担分のうちの3分の2を補助することになった。自己負担は9分の1だ。

 津波のときイカ釣り船は沖に出ていて無傷だったが、みんな老朽化し、新造船との格差があまりにも大きい。それで町は独自に義援金を使い3分の2を補助することとなった。家屋にも1軒あたり850万円が補助された。

 「ほとんどがFRPの立派な船になりました。船が良くなって水揚げも伸びた。ウニ資源も完全復活しました。あとはアワビだけです」