新北海道漁業史・私の漁業史13

豊かな資源と豊かな漁業

礼文町 Uさん(大正15年生まれ)


 礼文島の北の船泊で漁船漁業を営んできた。戦後から現在まで漁がなくて苦労したことはあまりなかったという。スケソウダラが獲れなかったらタラが獲れ、タラが獲れなければカスベを獲るという具合に何かが獲れた。最北の海は昔も今も豊かな漁場だ。

 「漁がなくて苦労したということはなかったです。じいさんの代にはニシンが獲れなくて樺太まで出稼ぎに行ったという話を聞いたことがありますが。昭和25年に3トンくらいの動力船を入れた。それまでは4人くらい乗って櫓を押して商売したものです。ニシン漁が終わればホッケの巻き網、そのあとコンブとウニ採り。秋から冬には磯回りでタコを獲っていた程度でした。冬にスケソウを獲り始めたのは動力船が入ってからです」

スケソを自家加工

 スケソウダラを水揚げしても鮮魚で引き取るところはないので自家加工した。沖から帰れば網外し、それにタラコや棒干し加工と寝る間もない忙しさだった。
 「まだ子どもたちは小さかったので若い人を頼んでいた。泊め網だったからほとんど満船だったな。船に積めるだけしか網を起こせない。沖に網を置いてくるのは普通でした。女の人を12、3人も頼んで腹を取って明太子にして。棒干し加工はまず水に漬けて凍らしてから干した」

 スケソウダラ漁は10数年続き、それが薄くなると今度はマダラを獲り始めた。船はその間どんどん大きくなり最高29トン型にまでなった。
 「昭和40年から50年ごろまでが一番良かったんではないだろうか。スケソウがだめならタラを獲ったし、イカも良かった。ほかにウニもコンブもあったから」

漁場はほとんど前浜

 漁はほとんど前浜だけ。イカ釣りで一番遠くに行ったのは、日帰りだったがロシア領の海馬島付近まで。タラ釣りに武蔵堆に出かけたときは1晩泊まりだった。
 「スケソウダラを獲っていたときには稚内の手繰りに何度か刺網を引っかけられた。でもタラ漁に変わって以降はそんなことはない。手繰りとの協定があるので絶対引っかけることはなかった」

 昭和53年にUさんは体を悪くしたために船を下りた。それまで乗組員を5、6人雇っていたが、船を小さくして息子さんと弟さんだけで漁に出るようになった。

後継者に全国が注目

 そして3年前に中学を出たお孫さんが漁師となり、船は9.9トンの新造船となった。この年、船泊では中学を出た3人が漁師となった。それが話題になってテレビ番組の「人間劇場」が取り上げ、好評で再放送された。後継者不足の日本海にあって、最北の船泊だけは漁協の青年部員も比較的多い。それも豊かな資源があってこそだ。

 「ここではウニ採りでも規定通りに採らせて小さいものは放している。ノナは陸で繁殖しすぎてどうにもならないから秋には沖に持って行って放している。ほかではそういうことをやっていないようだな」
 春からホッケ、夏はウニ、コンブとイカ釣り、初冬には最近ニシンが獲れだした。それからタラ漁。切れ目なく漁ができ、9.9トンで水揚げは年間3,000万円にはなる。

 豊かな資源を保ってきたのは自然でもあり、そこで暮らす穏やかな人間でもあったようだ。