新北海道漁業史・私の漁業史12

巨大開発の中の漁業

苫小牧市 Mさん(昭和15年生まれ)


 苫小牧市の海岸は36kmにも及ぶ砂浜で、漁業者は各地に点在しながら漁業を営んでいた。その海岸線のほぼ中間地点に、世界初の砂浜につくられた人工港といわれる商業港(現在の西港)が建設され、漁港も併設されたので昭和42年に漁協事務所が現在地に移転した。

列島改造ブームで

 ところが港の建設はそれで済まなかった。日本列島改造論のブームに乗り、苫小牧東部開発と、それに付随するさらに大規模な港(現在の東港)の建設計画が持ち上がる。15,000haという世界に類を見ない大規模な漁場消失を伴う開発だった。

 「東部はホッキ貝や定置網の優秀な漁場で、恵山から襟裳にかけてのカレイ資源の産卵場でもあった。我々としては漁港はできているし、それ以上の港は必要ない。それに補償金をもらっても漁場を亡くせばうまくいかないことは東京湾などの例で分かっていましたから。組合で反対決議をあげてデモ行進までしました。ところが組合員を1人ずつ一本釣りされて。反対決議をした役員さんも徐々に賛成に回ってしまいました」

 現在苫小牧漁協専務のMさんは当時、漁協の一職員にすぎず、青年部の人たちと最後まで反対したが、結局押し切られた。

漁場喪失に待った

 昭和51年、漁場消滅を伴う契約が交わされる。そのままだと数年後には東部海域の広大な漁場を完全に失うことになる。ここでMさんは粘り腰を見せた。
 「契約書には漁場として使えなくなることが書いてある。1日800隻もの船が出入りするのでその海域は使えないということですが、ぼく自身はそうはならないだろうと思った。それで支障のない限り漁業をやらせるべきだと主張したんです」

 このことは契約に添付される了解事項として残ることとなった。その後、Mさんの読み通り苫東開発は足踏みを続け、ホッキ貝桁引き漁など漁業は相変わらず続いている。そればかりか最近は運輸省の方針として、港湾をエコポートとして漁場に利用することが積極的に行われるようになってきた。苫小牧はそうした動きの先鞭を付けたことになる。

賃貸業に進出

 一方漁協では将来の漁業の縮小をにらみ、漁協経営維持のため新たな方策を次々に打ち出した。1つは冷蔵庫の経営で、賃貸冷蔵庫というユニークな方式。また賃貸マンション経営にも乗り出し、いずれも好調だ。

 「出資金を募って1,400トンくらいの冷蔵庫を建てたんですが、ほかの冷蔵庫業者もいるので単なる冷蔵庫では経営は難しい。それで1,000トン分くらいを細かく区切って街の寿司屋さんとか商店などに貸すことにした。1ヶ月5万円程度払えば本格的な冷蔵庫の専用スペースが使えて、しかも24時間出し入れできる。これが当たってまた1,400トン分を増築しました。アパートは灯油の個人メーターを入れたのが苫小牧では初めてだったそうですが、満杯状態。空き順待ちが出るほどです」

 都市漁協という特徴を十分生かし、漁協経営を安定させている。こうした施策を打ち出してきたMさんにはこんな体験がある。
 「組合学校を出て昭和35年にこの漁協に来たのですが、2回逃げ出しました。給料が安くて食えないんだから」