新北海道漁業史・私の漁業史11

激動の小型サケ・マス

大樹町 Hさん(昭和6年生まれ)


 大樹町での太平洋小型サケ・マス漁業の歴史はそれほど古くない。Hさんが始めたのは昭和51年で、それまでこの地域ではシシャモやツブ漁など沿岸漁業がほとんどだった。
「サケ・マスの時期に前浜でツブ漁をやっていたんですが、日高、胆振、渡島などのサケ・マス漁船が前浜に来て漁場が競合する。それでこの期間はツブ漁をやめる代わりに日高などからサケ・マスの権利を譲り受けることになったんです」

トン数水増し事件

 ところがサケ・マス漁業に参加して間もない53年に持ち上がったのが小型船の「トン数水増し事件」だった。道が改善命令を出したのは832隻中606隻にも上り、結局許可トン数を2倍に引き上げる代わりに4分の1を減船することで決着した。

 「地方の造船所では小型の鋼船はまだ開発段階で、溶接技術も良くなかったから鉄板が厚く重い船になってしまう。それで浮力材などを付けて喫水を取ろうとした。悪質でやったんじゃないんですが、結果的にトン数が増えてしまった。私も改善委員会のメンバーになったので、どうしたら安全を確保できるか苦労しながら検討したものです」

 その後、減船は繰り返されたが、日本200海里の漁場を確保していたこともあり、いわば小康状態が続いた。ソ連やアメリカによる違反の摘発が毎年のように繰り返されたけれども、小型船は中型船に隠れて目立たない存在だった。
 しかし平成4年、19トン型による大量違反が発覚、運命を大きく変える。Hさんが19トン型の船主で組織する北海道鮭鱒漁協の組合長に就任した翌年だった。

活路はロシア海域のみ

 この年、4カ国の条約によって公海でのサケ・マス漁が全面禁漁され、小型船は一部ロシア200海里に出漁する船を除いて日本の200海里内だけで操業することとなった。ところが区域外操業が道の取締船によって相次いで摘発されただけでなく、アメリカ沿岸警備隊の航空機によって公海での操業が22隻も発見されるに及び、19トン型は日本の200海里から完全に締め出されることとなった。活路はロシア200海里しかない。

 「以前から全鮭連を中心になって日鮭連と太平洋小型が加わりロシアとの交渉をしていたんですが、簡単にいえば全鮭連に冷や飯を食わされたということで、なかなか割り当てがもらえない。そこで我々もロシアとの直接交渉を始めました。いろいろな経過があったのですが、ロシアでも理解してくれて平成7年に直接交渉ができるようになり、現在に至っています」

サケ・マスは「裏作」

 現在の19トン型のサケ・マスの水揚げは5千数百万円になるが、入漁料や管理費などに2,500万円ほどかかる。春からの営漁にサケ・マス漁は欠かせないけれども、うまみはまったくない。逆に裏作が好調で経営の柱にまでなっている。従来、小型船はイカ釣りをする船が多かったが、平成に入ってサンマ漁に続々と転換、その水揚げが好調で現在では6〜7千万円に上っている。表と裏が完全に逆転した。

 「沿岸漁業だけだった大樹漁協が水揚げを大きく伸ばしたのは、小型サケ・マス漁と秋サケの定置網漁によってですが、サケ・マスで良い思いをしたことはほとんなかったです」