新北海道漁業史・私の漁業史10

よろず調整役として

室蘭市 Mさん(昭和2年生まれ)


 白老町虎杖浜の漁家に生まれ、国鉄勤めのあと白老漁業会虎杖浜支所の職員となり、一時漁網販売店に勤務したあと、昭和28年に室蘭機船漁協職員となった。

 参事、専務を経て昭和58年から62年まで組合長。また胆振管内漁協専務参事会会長を17年間つとめた。沿岸漁家の出身で、しかも底引き船の漁労長も乗組員も地元出身ということもあり、率先して沿岸とのトラブル解消に当たった。

 「漁具被害の心当たりがあれば船同士で徹底的に話し合ってくれと。それと沿岸の人たちに被害報告の用紙を渡し、この様式で書いてくれと。具体的に書いてもらえば調査のしようが違う」

計算ちがいで道水産会基金

 強烈な思い出の1つはサケ・マス減船で裏方をつとめたことだった。
 「昭和37年ですが、東京に出張していた道職員の野口宣さん(のち道機船連専務)から突然電話が来ました。胆振・日高のサケ・マスの減船をやってくれないかと。頼む相手が違うんでないかと断ったんですが、日にちがないから何とかしてくれと。それで札幌の旅館に船主さんたちに集まってもらって。まず私の自己紹介からはじめました」

 ようやく減船名簿を携えて東京に行ったところ、さらに仕事が待っていた。
 「すぐに帰ろうと思ったら、減船補償金の計算を頼むと。眠い目をこすりながら2日か3日かけてやりました。ところがどこでまちがえたのか、約500万円も多く残してしまった。その金が北海道水産会の設立の基金の一部となり、のちに川端元治さんから礼を言われたと聞いています」

 室蘭機船漁協は北転船を自営していた。200海里によって水産庁は新たな漁場を開発するため、調査船として10隻を南氷洋のオキアミ、6隻(うち道内2隻)を日本の200海里内の底魚の資源調査に委託した。

だまし討ち

 オキアミ組は早々と試験操業を切り上げて元の操業形態に戻ったが、底魚組は村岡さんが政府調査船船主会会長として国と契約を交わし3年間調査を続けた。

 「調査を終わって元に戻ろうとしたら『あんたら半分減船されたんだ』というんです。半年しか操業できないと。それで大喧嘩となりました。私は全底の北洋特別委員として水産庁と折衝した当事者の1人であり、この調査のことも業界で1番詳しく知っていたんです。そこに『おまえたちは減船になったんだ』と。そんなばかな話はない。ところが北海道の北転船主会全底が全会一致で村岡の方がおかしいとなってしまった。みんなは一部幹部の謀略に仕方なく従ったんでしょうね」

共産党議員に駆け込む

 水産庁に掛け合おうとしても逃げ回るだけでらちが開かない。そこで頼みとしたのが国会議員だった。
 「私は自民党員でしたが、自民党の先生方に頼んでもだめだなと。それで共産党の小笠原貞子議員のところに行ったんです。そこで顧問弁護士を紹介されました。結局、元に戻ることとなり、業界が私に文書でわびを入れ、請求もしないのに迷惑料を出しましたが、それまで会合ではのけ者扱い。ひどい連中だと思いました。これが業界の体質だったんでしょうね」

 昭和の北海道漁業史の中でもMさんは特にユニークな体験をした1人だといえる。