新北海道漁業史・私の漁業史1
               
魚田開発で入植し定置網一筋

羅臼町 Tさん(大正11年生まれ)


 昭和26年に魚田開発で羅臼に入植し、以来定置網一筋。昭和53年から平成3年まで羅臼漁協定置部会長をつとめた。
 「札幌のカネシメを辞めて独立し、学生時代の友だちの世話で道南の福島町で定置網を始めたのですが、3年間やっても赤字続き。羅臼に来ても4年は赤字でしたが、5年目にしてようやく黒字となりました」

 当初はほかの漁業者と生産組合をつくって定置網の免許を受けたが、次の切り替え時には個人で申請した。
 「私はそうは思っていなかったんですが、定置網なんて山師ものだという風潮だったんです。刺網の方がいいので定置網を新しくやろうという漁業者はいなかった」

有限会社を設立

 5年ごとの定置漁業権の切り換えでは優先順位がある。漁協の自営や漁民の生産組合または漁民会社が優先し、個人はもっとも低い。
 昭和50年ごろになるとサケ資源が増大し、全道的に定置網人気が急上昇、同じ漁場への競願が多発し、個人経営者は対抗上、漁民会社を組織することが多かった。

 しかしそれは書類上だけで、現実には従来と同じ個人経営というところが大半。Tさんはこのとき従業員参加の有限会社を作っている。
 「1人につき額面100万円の株を1,000万円で買ってもらいました。税金を引かれても4年ぐらいで元をとっていると思います。額面100万円で、配当が300万、400万ということが続きましたから」

 配当が資本金の3倍、4倍という数字に当時の隆盛ぶりが表れている。ただし羅臼では同じころスケソウダラも大漁続き。定置網はその華やかさの陰に隠れるほどだった。

共済制度を創設

 部会長時代に始めたのが羅臼独自の共済制度。水揚げの不均衡は定置網の宿命だ。解禁日の違いや、魚群の回遊が水揚げを大きく左右する。そこで多く獲った漁場から資金を集め、少ない漁場に分配する制度を創設した。網の規模などに応じて割り当て尾数を決め、それを超えた分を対象に最初は1割、さらに2割、3割、最高5割まで累進的に資金を拠出し、足りない漁場に補填する。

 「『そんなことより、さらにふ化事業にお金をつぎ込むべきだ』という意見もあったんです。でも『なんぼ資源が増えても必ず格差は出るんだから』と押し通しました。当時、私のところが獲れていて、拠出金を出す方だったからできた。この共済がなかったらつぶれる漁場がたくさんあったと思います。私の漁場も最近は不振で、お金をもらっています」

自前のサケ資源も育成

 羅臼はサケの「先獲り地帯」として標津はもちろん、知床岬をかわした斜里、網走方面からも批判を浴びていた。そのためもあって、ふ化・放流事業には莫大な資金を投入し、湧水のない川では遠赤外線を使ったふ化施設までつくって自前の資源を育てた。そうした数々の努力が実り、近年の魚価低落にも羅臼の定置網漁業はなんとか持ちこたえている。

 「平成11年の台風で私のところともう1ヶ統が網を壊したんです。そしたらほかの31ヶ統全部から手伝いに来てくれて、港が人で真っ黒になりました。漁期中ですから自分たちの水揚げを終えてから、早い昼飯を食って来てくれて、夕飯も食わずに遅くまでやってくれた。うれしかったですね」